
『神とは何ですか?』
という質問に対して、クリシュナムルティは
『どうやって見出すつもりだろう?
誰か他人の情報を受け入れるつもりだろうか?
それとも神とは何かを自分で見出そうとしているのだろうか?
質問をすることは容易だが、しかし真理を体験するには
大いなる英知、大いなる探究が必要になる。
だから第一の質問は、
君は他人が神について言うことを受け入れようとしているのだろうか、
ということである。
それが誰かは問題ではない。
クリシュナであれ、仏陀であれ、キリストであれ。
なぜなら彼らはみなまちがっているかもしれないからである
そしてそのように、君の特定のグルもまちがっているかもしれないのだ。
そう、何が真理かを見出すには、
君の精神は見出すべく自由でなければならない。
つまりそれは、
精神がむやみに受け入れたり信じたりしないことを意味している。
私は君に真理の記述を伝えることはできるが、
しかしそれは君自身による真理の体験と同じではないだろう。
すべての聖典は神とは何かを述べているが、
しかしその記述は神ではない。
『神』という言葉は神ではないのだ。違うだろうか。』
クリシュナムルティ「花のように生きる」
道元もまた、この点について「正法眼蔵随聞記」で次のように語っています。
『また昔の人の言葉であっても、それに固執してはいけない。
これも、もしかしたら正しくないのではなかろうか、
信頼するにつけてもなお念を入れて考えて、
それよりすぐれた点があれば順次すぐれた方に従うべきである。』
(水野弥穂子訳)
神仏への盲目的信仰や先師への盲従によらず
自らの体験と深慮を通して、先師の気づきを検証してゆく姿勢こそ
あるべき真理へのアプローチだと思います。
『道を得ることは、まちがいなく身をもって得るのである。
だからこそ坐禅を専一にしなければならないと思われるのである。』
(「正法眼蔵随聞記」水野弥穂子訳)