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大和心

第368回 明治天皇御製  言の葉に あまる誠は おのづから

著者:小山一夫 / 公開日:2024-03-10

掲載準備版・未公開。公開日は元ブログの投稿日です。

明治37年御製

言の葉に あまる誠は おのづから

人のおもわに あらわれにけり

明治神宮の「365日の大御心」では、次のような口語訳になります。

「言葉に言いつくせない誠の心というものは、自然にその人の表情に現れるものである」

「誠」とは辞書によれば、「真心。真実の心」という意味だそうです。

では「真」とはなんでしょうか。何を基準にしているのでしようか。

古神道では、特定の物差しを以て何かを評価するのではなく、惟神に沿っているかどうかを問います。しかしこの「惟神」に明確な定義がないのです。その故いろんな説が出てきましたが、結論が出ないまま今日に至っています。

神道で重視されるのは祓いです。

穢れなき心、穢れなき魂、これに沿うことが惟神だという人がいます。

ですが穢れとは何なのか、どうすれば祓えるのか、これもまた難しい問題です。

つまり自分で定義する「穢れ」を、祝詞を唱えたりして、祓えたかどうかわからないままに、穢れなき心、穢れなき魂になったと思い込んでも、それが正しいのかどうか、本人にはわかりません。

穢れには有形と無形の2種類ありますが、結局は幽の祓いがなければ祓いは完結しないのです。

自らを神籬と化し、或いは分魂して神人合一し、受霊をすることで初めて惟神を体験することができるのです。

その惟神、つまり神のまにまに(神の随に)、神の御心のままに「在る」ことが誠の姿なのです。それは言葉を超えています。誠の姿とは、神の光を纏うことなのです。