以前に書いた手記をここにアップしたいと思います。
「大祓祝詞」を佐藤卿彦先生の著書「顕神本田霊学幽斎記録篇」を手掛かりに考察します。

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『〇八百万の神等を神集へに集へ賜ひ、神議りに議り賜ひて、
此の条は、神界に於いて八百万と沢山の神々を集め、種々相談をされたとの意と受取れるが、是は、設神理で、八百万の神々が言語を以て相談し賜うと云う事は考えられない事である。
神々の職掌は悉く、天御中主神の本体より分剖し賜わった御心を神の随意に其の部署に於いて生成化育の為に活躍されて居られる事は前にも述べた通りである。
即ち神集へに集へ賜ひ、神議りに議り賜ひてとは、祈願致す人の真心の神界に到達致す度合いと申すか、神々と人 (霊止)との霊交が、奏上致す人の鎮魂力の大小と申そうか、其の人、其の人、各々の霊魂の活きに因つて異なるものであることは、本田霊学を学ぶ者の感知する処である。
此のように奏上致す人々の側から神界を窺う時は、大勢の神々が集合、相談して居る事であろうと、現界に於ける国会の如き機関が有るものと想定致した人間側の意向が示されたものである。』(「顕神本田霊学幽斎記録篇」)
(注)「読み方」では「多数の神様方をひたすらお集めになって、その神々とご相談なさって」と訳している。これは巷間の会議のようなイメージを示唆している。だが古事記序文に「説神理」と明記されていることをよく考えるべきだ。神は人ではないのだから。
(注)「祝詞新講」では、「集へ」は他動で、「集ひ」は自動ということから「このところでは神漏岐命神漏美命の詔命によって、集え賜うのである」としている。「神議りに議り賜ひて」は「神の会議を催し給うての意」。神は人間ではないので、佐藤翁が上記で解説されているように説神理なわけだが、古事記編纂の時代にはいわゆる対機説法でこのような文面になった。