「本田親徳研究」(鈴木重道氏)を参考に本田霊学の継承について御紹介したいと思う。解説については自説であり、本田霊学としての公式見解ではない。


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『蒼海窓問答の内容は副島が七十才の思想的円熟期に当るのでありますが、至る処に本田霊学が祖述されている点は顕著であって、その一々に就いて述べることは到底不可能であるが、重なるもの若干に触れたいと思います。
「真道問対」の巻頭の第二及び第三章に左の問対があります。
問 斎(まつり) に幽と顕があるか。(副島〉
対 有り。神武紀に曰う顕斎(うつしいはひ)これなり。顕斎有れば則ち幽斎(かくりいはひ)有り。故に顕斎して幽斎せざるは非なり。幽斎して顕斎せざるも亦非なりと知るべし。(本田)
問 幽斎式は聞くことを得べきか。(副島)
対 幽斎は神殿有ること無く、奠帛(てんはく)有ること無く、 祭文有ること無し。 霊を以て霊に対するのみ。 (本田)
この二章が巻頭にあるのは非常に意味深いのであって、「霊を以て霊に対する」即ちわが霊を以て 天地の神霊に対するという原則が示され、その霊学(まなび〉の道が示唆されています。これによらなければ、天つ神国つ神に対接する道がないことを教えています。啻(ただ)に神々に接しその教を享け得ぬのみでなく、宇宙観神霊観の確立が出来ないことも事実でありまして、神霊の厳存を確認せずしては口に道を説くともそれは仮説想像にすぎないものであります。
本田霊学に於ては結論とも云うべき「道之大原」にも、幽斎については次の様に(第十五章)言及して居ります。
幽斎は霊を以て霊に対す。顕斎は形を以て形に対す。故に幽斎には神像宮社無くして真神を祈り、顕斎には神像宮殿ありて象神を祭る。
そのわが霊はいずこより来りいかなるものであるかについては第五章に、
人心也は大精神の分派、故に生無く死無く之(大精神)の制御する所たり。