当時静岡浅間神社には中教院があった関係上、静岡附近を始め焼津近辺に至る神主や社家の人々にも講義して居り、その関係にて三輪武が最初の門下となり、その招請によって静岡本通りの寓居を引払って三輪に逗留し、ここから静岡浅間神社にも赴き霊学に志す者達に講義し、特に浅間三社中大歳御祖神社にて帰神術の指導もした。か様な訳であるから静岡逗留時代からその名声と独特の学理は長沢の知る処であったのであり、本田親徳が三輪より浅間神社に出講し、又招かれて清水の御穂神社等に赴いた際不二見村にて長沢雄楯と初会見したのである。(当時御穂神社社司は未だ御歌所寄人葉若清足であったか否かは未調)その場所は月見里神社から約五百米程の処にある美濃輪稲荷神社(長沢の所轄)の茶屋であったと推定される。美濃輪の茶屋は初午等には多くの茶店が出てにぎわったが、平常でも赤毛氈を敷いた一見茶店風の店があり、美濃輪の茶屋と呼ばれていた。俗称ミヤの茶屋と云われたので、三輪と混同したものと思われる。
この地方では後に本田門下の双壁として三輪武と長沢雄楯とが称されたので、且は三保清水方面に出張の際は御穂、月見里両神社にて長沢はじめ神職を指導し、又懇意であった白髭神社の稲葉家にもよく逗留したと伝えられている。即ちこの美濃輪の茶屋に於て初会見した時に長沢は二十七才。和漢洋にわたって学殖も深く且は神職として当然平田学派の神学も研究して、相当の自信を持って居たと思われますので、質疑応答は深刻を極めたものでありましょうが、伝うる処は皆この時長沢は遂 に論破することが出来ず、深く尊信畏敬して直ちに入門を乞い師礼を取ったと申します。実に潔く清々しい事であります。
〔註一〕全集の巻末年譜には明治十七年春(長沢数え年二十七才〉として居るが、満才を以て当てるのが適当であると思われる。
猶この事に関して前記の佐藤卿彦著の第一編第一章中に言及して居りますので、多少記述に重複するを顧みず殆ど全文を掲げ度い。(『本田親徳研究』)