先生は非常に煙草が好きであった。巻煙草は吸はれなかったが、刻みは身辺を離さず、殆んど終日吸ひづめであった。極度の近眼であったが眼鏡を用ひられなかったので、煙管へ煙草を、つめられてもよくつまってゐないで抜け落ちたのも知らずに、空の雁首に火を付けやうとしたり、又煙草が房のやうにブラ下がってゐたりした。煙管の掃除は大抵筆者がその役を務めた。筆者がかんぜよりを作り初めると、先生は煙管をソッと筆者の前へ出して置かれるのが常であった。食事は肉類が大好物で、肉を食べないと痩せると言はれ、大の健啖家でよく召上られた。そして壯年の折三保神社に通はれた当時は自炊をして粗食をしたなどと話された。風呂は嫌いで入ることを余り好まれなかった。
先生は衆知の腰の低い方で、去年の衆議院議員選挙投票日のことであった。投票所は先生より下手五六丁離れた幼稚園で、筆者がお供で投票に出かけることになった。足の弱い先生は袴に靴履きで杖を持たれ、連れ立って家を出た。
すると向ふから来る人には誰にでも丁寧に頭を下げて挨拶をせられる。挨拶を受けた人達は面喰らふ者が多かったが先生は一向頓着なしであった。極度の近眼なので向かふから来る人影が先生の眼にうっすら写るに違ひない、すると立ち止まって其人が近付くのを待って頭を下げられるのである。此時はまだ此様に足が強かったのであったが、亡くなられる前、九月末頃には御社へ参詣の往き帰り、かへ添えする筆者の腕にブラ下る様にして歩まれた。之も今は悲しい思ひ出となってしまった。
ヂッと瞑想に耽っていると、走馬燈の如く筆者の脳裡を追憶が流れる。一日でも二日でも書き切れるものではないから、これ位で止める。
嘗て先生が
「自分は迷信打破を天職と心得ている。然るに稲荷講社が盛んになって来た時は、毎日面白いやうに信者が増して忽ち数万の信徒を擁することになったが、その信者達は自分の言ふことを少しもりかいせず、各自が勝手な迷信に耽っているので、これでは正しいしんこうを示して迷信を打破しようとしたことが反って反対の結果になったので、潔く講社の発展を止めて了った。」