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大和心

第560回 本田霊学の継承-60(2/2)

著者:小山一夫 / 公開日:2024-09-30

掲載準備版・未公開。公開日は元ブログの投稿日です。

『長澤雄楯は宮城島金作を本田霊学の帰神法の神主に育てあげ、神霊託宣による祭神の霊威の顕現を三保地方の民衆に示し、信仰を強固なものとした。「崇敬者の勧誘」「社殿の整備」「維持資金の蓄積と投資による利殖」により、明治30年(1897)には御穂神社の社格を「県社」へと昇格させている。』(並木英子氏の論文)

これについては後述するが、本田翁、長沢翁、佐藤先生、そして宮城島氏はそれぞれ立ち位置が異なる。それを加味してそれぞれ考察する必要があると思う。

『しかしながら、自らの信徒を獲得していった宮城島金作は、長澤から独立し、明治27年から明治30年の間に神道三穂教会を設立した。神道三穂教会では、長澤の稲荷講社と同じく、本田霊学の行法実践をおこない、金作以外の斎官が常駐し、帰神法の稽古がおこなわれていた。』(並木英子氏の論文)

ここでの帰神がどういうものだったかはわからない。審神者がいたのかどうかも不明だ。ただ出口王仁三郎氏が晩年まで長沢翁と親しく交際していたのとは対照的に、宮城島氏が、長沢翁そして本田霊学の痕跡を消そうとしていたのは明らかだ。