神道と日本の記事一覧

大和心

第561回 本田霊学の継承-61

著者:小山一夫 / 公開日:2024-10-01

掲載準備版・未公開。公開日は元ブログの投稿日です。

「本田親徳研究」(鈴木重道氏)を参考に本田霊学の継承について御紹介したいと思う。解説については自説であり、本田霊学としての公式見解ではない。

**********************************

『明治32年(1899)には、三穂津彦命・三穂津姫命・天鈿女命・事代主神からの神勅により、静岡市街へ分教会を設立する計画を立て、明治36年(1903)に静岡市本通4丁目46番地に分教会をひらいた。これは、月見里神社付属稲荷講社と競合をさけ、試みたためだと思われる』(並木英子氏の論文)

『神道三穂教会史料によれば、高田潤作の息子である高田雄民と金作は、同盟契約を結んでいる。金作は神道三穂教会の資金を流用し、雄民が経営していた貿易会社高田洋行に出資をしていた。金作自身も三穂洋行を興し、中国各地と満州に支店を開いた。しかしながら、三穂洋行の事業は失敗に終わる。また金作は、雄民を介し、鉱山経営に出資をするものの、これも上手くいかなかった。

金作は、神道三穂教会での神主としての活動の外に数種の事業を展開した。明治四十一年より、三保村、塚間弁天において、「三穂岩塩再製工場」を開いた。金作の妻のすぎが三保の本宅に居住し、経営をおこなった。塩業の他に金作は、官許薬の製薬と販売、染料工場の経営、蘭の品種改良による投機、米相場への投資、掛川遊郭における貸座敷、「山口楼」の経営をおこなっていた「宮城島信夫回想録」』(並木英子氏の論文)

結果から推測するに、高田雄民氏は宮城島氏を長沢翁の元から独立させて、新たに宗教団体を作り、そこで集めた浄財を事業に投資させていたわけだから、それが当初からの目的であったのかもしれない。それにより宮城島氏も外国に投資して失敗するなど苦労している。

ただ何が本業なのかわからないほど国内での事業も多岐にわたり、当時合法だったとはいえ、遊郭での貸座敷まで手を出すに至っては、もはや神職としての誇りは失われていたのではないだろうか。残念ながら氏には、長沢翁の元で誠心誠意、神界の御役に立とうという姿勢など全く見られない。