と記して、深くその師を悼んで居ります。
蓋しこの著者は稲葉門下の正統であって、道を得て後師の命によって長沢門にも遊んだのであります。略譜に依りますと外地に奉務して居った間は陸軍省に属し日露の役に従ったので、三十九年には戦役の功によって勲七等青色桐葉章を授けられ、金百八十円を賜わって居ります。関東都督府通信技手として奉天、安東、奉天と勤務、大正二年六月には正八位に叙せられ退官いたして居ります。三十九才の壮年でありました。日露の役に従って特に電信電話の方面に関ったのでありますから、自から機密にも触れたでありましょうし、その人物完成の上で常人の踏み得ない道を歩んだことは想見するに難くないのであって、その科学的な冷静な批判力は大きな特質を霊学の上にも齎したと考えられます。
宮城島・稲葉両者は年齢も近く極く親しい友人で、美保神社の社務所(師長沢社司〉に起居を共にして修業して居ったとのことであります。大正五年神職を拝命したのは清水市入江町の白髭神社社司であるが、この神社は武内宿称命を主神として奉斎して居るので、冥契の深きを感じるのであります。この両高足に関する逸話等は後に記しましょう。』(『本田親徳研究』)