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大和心

第605回 本田霊学の継承-84

著者:小山一夫 / 公開日:2024-11-01

掲載準備版・未公開。公開日は元ブログの投稿日です。

「本田親徳研究」(鈴木重道氏)を参考に本田霊学の継承について御紹介したいと思う。解説については自説であり、本田霊学としての公式見解ではない。

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『王仁三郎は後年、自叙歌集の中で静岡行の思い出を詠んでいる。

丹波より弟子きたれりと長沢師いとねんごろに迎へたまへり

幽斎のさまをうまらにつばらかに朝夕説かせ給へる師の君

師の君のごとき温厚篤実の人は今まで見あたらぎりけり

その他、長沢翁に対する敬愛の歌が数多くみられる。

王仁三郎と親しかった多くの人々は、彼がこの長沢翁や前に師事した岡田惟平翁(国学の師)を心から尊敬し、生涯じつに真撃な態度で師弟の礼をとっていたことを、口をそろえていう。王仁三郎は後年名をなしてからも長沢翁との聞には往き来があったが、車の乗り降りにも師の手をとり、ふろの湯かげんや献立、寝具にいたるまで気をくばり心を配るのであった。王仁三郎は和歌や書画その他の先生に対しても同様で、とにかく師に対しては終世礼をつくしたという。

と記している。この著者は王仁三郎の孫に当られる人であり、客観的に資料によって祖父の一生を書いているのであるが、その人となりや長沢雄楯に対してはほぼその通りと考えられる。筆者の得た資料によると明治三十一年四月の入門修業期間は約一ヶ月半ほどの間であり、再度清水市に赴いて指導をうけたのは明治三十四年であったと思われる。伝えられる処によると、三十四年に喜三郎が神主となり、長沢が審神者をしての幽斎には、石清水八幡宮の眷属小松林命が憑依されて、日露戦争の予言をしたとのことである。その後も往来は断続して続けられたことは右の引用文にある通りであるが、一つには出口の海外的な活動などには長沢にとって平田篤胤・佐藤信淵の学統的な夢が托されていた趣もあるかと思われるが、随って大本教事件によって門下から不敬罪の者を出した長沢の心痛は容易でなかったと考えられる。併しながら大審院より示された資料は、その雑誌に発表した文が不敬罪を構成すると云う内容であった。』(「本田親徳研究」)