この「呪術と呪文とによつて、人々の身に附いている悪霊を逐ひはらふのと同じ思想によつて行はれた」という考え方は、確かに祓いの一側面でありそれを否定するものではないが、大祓祝詞の祓う対象は個人レベルの小さなものではない。国土等に附いている悪霊を祓うとでもいうのだろうか。大祓祝詞では祓う対象として具体的には「国内に成り出でむ、天の益人等が過ち犯しけむ種々の罪事は天つ罪国つ罪幾許だくの罪出でむ」、つまり人間が犯せし種々の罪事を祓うわけだ。呪文を用いる呪術という思想は、おそらく道教や密教的な考え方だと思う。密教ではしばしば念力という言葉を使う。行者が深山幽谷に籠り、命がけで難行苦行を行うことで身につけた念力・加持力といった能力と呪文等を駆使して、呪術を行う。これは行者本人の念力等によって呪術の成否が決まるという。
一方、神道はこのような行者が行う難行苦行を要求しないし、本人の念力等も必要としない。たとえば禊についても「身を削ぐ。身を削る、『そ』は元の意、元の気に還る、肉体の穢れを取り除くの意なり、神は穢をいたく嫌う、体の穢れ、邪心等、身心共に祓い清めて神に接する手段に禊を行なう」(顕神本田霊学法典)。また「身潔について水を被るなぞの行がありますが如何でしようか。」という問いに対する神の御答えは「誠の身そぎは、体と己の魂とを清むることなるも、誠の道を知らず、世に行なえる滝に打たれる、水を被る等、体を痛めるのみにして真の身そぎに非ず、『霊を以て霊に対する』真の身そぎは魂を磨く事にあるなり」(顕神本田霊学法典)とある。本田翁は「霊学は心を浄くするを以て本と為す。故に皇神鎮魂を以て之を主と為す。百姓尊奉して日に真心を練る」(道の大原)。つまり滝に打たれたり等々では祓いにならないということだ。