そもそも他感法には、審神者がおり、霊媒たる神主がおり、さらに正式には琴師がいて、六絃の琴を奏でて神霊の来格を乞い、審神者がお伺いを立てるのであるが、木村先生の厳父天快翁は琴師を廃され、審神者たる翁みずから、石笛を吹き鳴らされる法を興された。
石笛は鎮魂玉と同様、神界から奇蹟的に授かるのが本来であるが、かりに相当のものを尋ね出して用いてもよい。ふつうは拳大、鶏卵大の自然石で、自然に穴の明いたものを用いるが、古代の遺物はおおむねその穴が抜け通っている。先生が天快翁から伝えられた秘蔵の石笛は、二拳を合わせるぐらいの大きさに穴が斜めに抜け通っており、やや青みを帯びた黒色の神光奇しき逸品であった。本気で吹けば八丁聞えると云われ、天快翁はこれを神界から授けられた由である。』 「英霊の聲」三島由紀夫著より。
三島氏が友清氏の著作を読むようになった経緯は分からぬが、友清氏の天皇観に共鳴していた可能性は否定できないだろう。
この「英霊の聲」を発表したのは昭和41年6月だが、氏はその2か月後に大神神社を訪れている。当時の宮司は後に佐藤先生の指導を受けた中山和敬宮司(昭和25~58年まで宮司を務める)だった。手元の記録では、大神神社での公式幽斎は昭和43年4月と46年7月に行われている。三島氏が「文化防衛論」を発表し、「楯の会」を正式結成したのが昭和43年の事。もしも公式幽斎の後に三島氏が大神神社に行かれ、「英霊の聲」を執筆されていたら、と思うと残念でならない。「英霊の聲」も恐らくは違った内容になっていただろうし、昭和45年(1970)のあの悲劇も避けられたかもしれない。