戦後の本田霊学の継承に関する考察は、まず佐藤卿彦先生の紹介、そして佐藤先生の弟子達について、特に大久保藤男翁、横山信行氏、渡辺勝義氏を中心に、皇法の伝承、鎮魂法、帰神術をテーマに考察する。その後、佐藤先生と鈴木重道氏の著書等を参考として、佐藤先生による公式・正式幽斎の偉業を振り返りたい。

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『佐久間象山の教えを受けた平田門流に、長谷川昭道という人がいます。この人の著に「皇道述義」があり、その中に「皇道皇学の要」という言葉があります。これが岩倉具視の目に留まって、昭道は皇学の意見を明治元年に建白します。
それによると、皇学は神皇の学であり、「御国家常変の御大用に供するに足る」ものであり、すなわち「皇国中古の伝来に執拗せず、漢土の学流に偏侍せず西洋の学芸に拘泥せず、広く万国世界の学芸に通じる」(日本・漢土 ・西洋に固執せぬ広い学芸に通じる)もの、「皇道の羽翼」「皇法の輔助」を意味する学問だというのです。
明治元年に京に設けられた学問所を「皇学所」と言ったのはこの流れかもしれません。昭道はその御用掛となっています。皇学所では、平田派の書物が教材に使われていますが、新国家建設の理想をそこに見たのです。皇学所は、残念ながらうまく軌道に乗らず、廃校になりました。
私の手許に、紀州の大畑晴潔、田丸藩の中村能迩がまとめた『皇学先務條目』という書物があります。この二人がどのような人物かはわかりませんが、皇学の目的は昭道の建白と似たもので、神学、史学、明令学、言霊学の四つを挙げています。
歌については「言華虚飾ノ歌会ヲ断然卜廃止シテ誠実神武ノ歌学ヲ教ベシ」と言っています。皇学には国家統治の学問としての意味合いがうかがえます。このように広い意味での「国学」を言う語にはそれぞれがあり、かつ時代の流れの変遷もうかがえます
十五年に伊勢に「皇學館」が開校し、同二十三年には國學院が開校しました。詳しくは別に述べますが、明治初中期に皇学、国学の名を冠する学校が、国立ではなく私立として建てられたことに、もはや「国学」に対する偏見があったのかもしれません。』(「やさしく読む国学」中澤伸弘著)