戦後の本田霊学の継承に関する考察は、まず佐藤卿彦先生の紹介、そして佐藤先生の弟子達について、特に大久保藤男翁、横山信行氏、渡辺勝義氏を中心に、皇法の伝承、鎮魂法、帰神術をテーマに考察する。その後、佐藤先生と鈴木重道氏の著書等を参考として、佐藤先生による公式・正式幽斎の偉業を振り返りたい。

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『私が神主として、自ら体を切ったのは入門して二年目位の、横山節男氏宅であった。後の先生のお話しでは、数日前から解っていた相である。当時門下の人が体を切るのには相当の歳月を要したものであった。』(「佐藤卿彦先生遺稿遺影集」)
大久保ノートによれば、初めて稽古に参加されたのは41年2月20日(於相原翁宅)。その後1回の稽古を経て、同年5月15日に門人帳に署名(於月見里神社)。同年8月13日に鎮魂石を授かる(於私学会館)。ここまで初稽古から半年、稽古回数は計5回である。これは恐らく後にも先にも例がないほどの速さだろう。筆者の場合、鎮魂石を頂くまで半年、稽古回数は6回だったが、門人帳については6年程後だったと記憶している。
さらに42年3月18日に先生は、大久保翁の自宅に御霊璽と祖霊社を鎮斎されている。そして同年12月8日に初めて体を切る(於佐藤先生宅)。その間、月に2~3回の稽古を受けており、11月19日の記録に「終了後佐藤先生より、近く体を切り、口も早く切れる由、有難き」とある。
「始めて体を切らせて頂く。帰途、神神社参拝、大祓1回奏上、拝殿中、びしと高き音響あり。あまりの恐ろしさに祝詞を間違え、この織何やら鎮魂の呼吸のごときもの自得ス」(大久保ノート)
その後2回目の稽古で口を切られているが、これも尋常なことではない。大概、体を切っても口を切るまでには、如何に早くとも数か月はかかるだろう。大久保翁はやはり常人のレベルを超えている。