[産土]神は寛仁大度(かんじんたいど)[=心が広くて情け深く、度量の大きいこと]でいらっしゃって、産子(うぶこ)[=同じ産土神を奉じる人々][に対して]は、少々の不敬なことや過失があっても、すぐに罰はお当てになさらないから、『神は存在しないのだ』と馬鹿な心に[思い込んでしまうことになり]、『これは[正しい]道ではない』と知りつつも、さっぱり[態度を]改めない[結果]、とうとう家を滅ぼし身も倒れて、見る影もない[ほど]に落ちぶれてしまうのである。悲しくないことがあろうか。[いや、とても悲しい。]
今日このように縁あって[私の]講義の席に参列された皆さん[におかれて]は、私が申し上げることを決して悪く思わずに、今言ったことは、いわゆる神には口がない[ので]、人[※ここでは本田親徳]に言わせなさったことであると[ご理解していただいた上で]、しっかりと『気海丹田』と言われる腹の底に心を据えて、『閉目拱手(へいもくこうしゅ)』という[ように、]目を閉じて手を胸に当てて、心を『公平無私』という[ように]、生まれながらの本心に立ち帰って、よくお考えになられると、この霊魂という魂も、つまりはこの産土神が支配されるものであるが故に、その心の鏡をたちまちに産土神が磨きに磨きなさって、『真澄の鏡』[=立派な鏡、また、よく澄んだ鏡。鏡をほめていう語。]のように明るく照り輝いて、これまで見えなかった自分の霊魂も手の裏を返すように[目に]見え、澄み渡る[ようになる]のである。それによってますますその産土神を尊崇し、その魂を磨き上げて見ると、いままでの曇天風雨の空[のような気分]とは雲泥の違いであって青天白日[のような気分]となり、その快く楽しいことはたとえようもない。