本田親徳翁の「鎮魂法と帰神術」について考察したいと思います。

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『二 日本書紀巻第五 崇神天皇の御紀 (巻末K参照)
七年春二月、丁丑朔。
辛卯詔して曰はく、昔、我が皇祖大に鴻基を啓きたまひき。其の後、聖業途高く、王風博く盛なり。意はざりき、今朕が世に当りて数災有らむとは。恐らくは朝に善政無くして、咎を神祗に取るか。盍にぞ命神亀て以て災を致せる所由を極めざらむやと。是に於て天皇、乃ち神浅茅原に幸して、八十萬神を会へて卜問ひたまふ。是の時、倭述々日百襲姫命に神憑りて曰りたまはく、天皇何にぞ国の治らざるを憂ふるや。若し能く我を敬ひ祭らば必ず当自平と。
天皇、問ひて曰はく、如此教へたまふは誰れの神ぞや、答えて曰はく、我は是れ倭国の域内に居る神、名を大物主神と為ふ。時に神語を得て教の随に祭祀りたまふ。』(「顕神本田霊学法典」)
『この崇神紀で注意すべきは、第一にこの前年即ち六年に、天皇が天照大神と倭大国魂の二柱の神と共に住む(「同床共殿」という)ことを心安からず思って、天照大神を豊鍬入姫命に託けまつりて倭の笠縫邑に祭り、日本(やまと)大国魂神を渟名城入姫命に託けて祭らせた(「神人分離」という)ことであり、第二に、夢告については神武天皇紀には天照大神、高木神(高皇産霊神)つまり「天つ神」が影のようにいつも天皇を見守り、教えを垂れているのに対して、崇神天皇紀では神人分離後、交渉する神が大物主神、つまり「国つ神」に移行している点である』(「古神道の秘儀」)