本田親徳翁の「鎮魂法と帰神術」について考察したいと思います。

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それはさて置き、当時の指導情景の記録があるので、もう少し掘り下げてみたいと思う。形式としては審神者の前に大勢の人達が座り同時に行うものだった。これでは本田霊学の幽斎とは全くの別物だといえる。
『幽斎修業は、修業者にたいして、手を一定の形式に組みあわせて、瞑目静座させ、審神者は天津祝詞を奏上し、天の数歌をとなえ、石笛を吹きならして、「ウー」の言霊によって霊をおくる。本来、鎮魂は各自の浮遊せる霊魂を臍下丹田にしずめるものであったが、なかには憑霊が発動し、両手を振動したり、言語を発するものもあった。そこで発動のはげしいものは、別室へみちびいて特別に審神した。また別に、希望者に、岩戸修業をおこなわせたりもした。この修業は、三日間岩戸のなかにこもり、無言の業をなすものであって、鎮魂の自修や、神書の黙読あるいは、浄書などをした。』(大本七十年史 上巻 第二編)
大本での審神者は浅野氏が務めるのが通例だったというが、彼に正しい審神者ができたとはとても思えない。「本来、鎮魂は各自の浮遊せる霊魂を臍下丹田にしずめるものであった」については必ずしも否定しないが、なら何故『「ウー」の言霊によって霊をおくる』ことが必要とされるのだろうか。言っていることとやっていることが矛盾している。これは浅野氏が、鎮魂法と帰神術の正しい知識を持っていなかった為だろう。