一般財団法人 野萩青少年育成財団

霊学の継承 終戦まで

先行公開・2026年10月11日

第2回 第2回

今回は、巷間で言われているような間違いを正し、本田霊学が本来どのようなものであったかを明らかにしたいと思う。それが佐藤先生や兄弟子達に対する恩返しのひとつになれば幸いだ。筆者は、本田翁によって再興されたこの本田霊学が失伝することを何よりも憂いている。この試みが、これからの正統な伝承に多少なりとも役立つことができれば、それ以上の喜びはない。

本田親徳門下数百人、長沢雄楯の下に来り学ぶ又千数百人、稲葉大美津は厳に志を見て人を選びたるも猶学ぶ者幾十名を算えたのでありますが、中より何らかの点にて後世に記して遺すべき人々の名を挙げて仮に道統系図を作れば、左の如きかと思われます。元より私案にすぎませぬ。

昨昭和五十一年六月に山雅房より出版された「本田親徳全集」は、現存の遺著の殆ど大部分を集めたものでありますが、その巻末記に年譜を掲げましたので、大方の読者はその生涯をほゞ了解の事と思われます。未見の方は就いて御覧願うとして、その為人について申添えたいと存じます。先生は幼にして穎悟、頭脳甚だ明晰で且俊敏勇気に富まれたことは万人の認める処であって、別に政治家又は軍人として世に知られた方でもないのですが、郷里薩摩の加世田あたりでは随分伝説的に語りつがれている由であります。即ち少くして藩校に学び、文武両道にはげみ、特に剣を善くしました。全集巻末記の年譜には次の様に記しています。

天保十年(一八三九)満十七才。皇史(日本紀)を読み帰神の神法廃絶したるを慨歎して志を立つ。(難古事記)藩を出でて武者修業して京に上る。水戸藩の会沢正志の英名を聞き東下して就きて学ぶ。約三年と云う。和漢の学をはじめ哲学科学の基礎知識この間に成るという。又この間平田篤胤の家にも出入せしとも云う。又天保十四年の条に、京都藩邸にあり適々狐憑の少女に逢い憑霊現象を実見して霊学研究の志を竪むと伝う。と記しています。この年九月、平田篤胤が歿しているので、先生が江戸で平田家に出入したのは篤胤晩年のことであります。

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