廃仏毀釈の激しかったのは、旧津和野藩、旧薩摩藩、天領隠岐などであった。特に激しかったのが旧薩摩藩であり、その結果、鹿児島県には国宝や重要文化財の仏像や寺院建築は一つも残っていない。例えば会津藩では初代藩主・保科正之自身が神道家であったことから、歴代藩主の葬儀は神式で行われた。一方、薩摩藩では江戸時代後期まで藩主一族の葬儀は仏式だったが、その流れを変えたのは島津斉彬(1809-1858)の曽祖父重豪(1745-1833)である。彼は仏教を捨てて神道に傾倒した。だが鹿児島県には、廃仏毀釈の起こりやすい環境が別にあった。それは寺請制度(てらうけ)がなかったこと、外城士制度があったこと、キリスト教と共に一向宗も禁止されていたこと等が挙げられる。つまり仏教もある意味監視対象であったわけだ。
幕府や他藩はキリスト教対策で寺院を行政機関に組み入れ、檀家制度をとりながら、農村部では通行手形などの発行までしていた。それだけ民衆の中に仏教が浸透していたことになる。しかし薩摩藩ではそのような仕組みがなかったことで、行政が寺院に依存する部分もなかったわけだ。それが神仏分離政策を加速させ、過度な廃仏毀釈まで起きた背景になっている。
国学隆盛前の薩摩藩では、本田翁(1822-1889)は宣長らの国学を学ぶ機会が得られず、1839年、翁17歳の時に薩摩を離れることになる。
「皇史を読み帰神の神法廃絶したるを慨歎し志を立つ。(難古事記)藩を出でて武者修業して京に上る。水戸藩の会沢正志の英名を聞き東下して就きて学ぶ。約三年という。和漢の学をはじめ哲学科学の基礎知識この間に成る。又この間平田篤胤の家に出入せしともいう。」(「本田親徳研究」)
本田翁は21歳(1843年)の時に京都藩邸にいたが、その頃に霊学研究の志を堅めたという。同年に平田篤胤が死去しているが、その前後に平田学派に触れる機会があったのだろう。
神懸に三十六法あるのを悟られたのが1856年(翁34歳)。1863年には郷里にいて長男誕生の記録がある。
島津斉彬(1809-1858)によって藩校造士館の改革が行われ、廃藩置県後に国学局が設立されるなど、薩摩でも様々な経緯を経て国学が推奨されることになる。