一般財団法人 野萩青少年育成財団
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瞑想の純粋さ

2022-04-28 著者:小山一夫

原文保存・内容校閲前/画像は元サイトから読み込みます。

 

「瞑想において大切なことは、精神と心の質である。

肝要なことは何かを成就することでも、あるいはめざす何者かになることでもなく、天真らんまんでしなやかな精神のあり方である。


否定を通じて肯定的な状態が現われる。

ただいたずらに経験を蓄積し、経験によって生きていては、瞑想の純粋さは生まれない。


瞑想は目的のための手段ではない。

瞑想は手段であり同時に目的である。
精神は経験によっては決して天真らんまんたりえない。

 

経験を否定することによってはじめて、思考によっては生み出すことのできない天真なる状態が現われる。


思考は決して天真たりえない。

瞑想は思考に終止符を打つことであるが、それは瞑想者によるのではない。

なぜならは、瞑想者と瞑想とは不可分の全体なのである。


そしてもしも瞑想がなければ、人は光と色の大いなる美の世界にいながら、それが見えない盲人のようなものである。」

『クリシュナムルティの瞑想録』

 

巷には瞑想法といわれるものが氾濫しています。

でもそのほとんどは単なるリラックスの為のものであったり、宗教目的や、想像を逞しくするような観想法ではないでしょうか。
 

ヨーガスートラは「心の作用の止滅」を説きます。

 

これは、クリシュナムルティの「瞑想は思考に終止符を打つこと」に通ずるものですが、いずれにしても集中を求めたり何らかのイメージを膨らませる「妄想法」ではありません。


ヨーガに於いて集中は邪魔ものだといえますが、観察もまた、厳密には引き算してゆくべき対象です。

 

確かに観照に至る過程では、観察は重要な意味を持ちますが、いつまでも観察に囚われていたら、ヨーガスートラの説く純粋観照者など出現しません。
 

止観という言葉があります。

これは止(シャマタ)と観(ヴィバーシャナ)に分かれます。

止とは、心の作用の止滅を意味します。

そして観(観照)とは、止の先に起こる境地なのです。ですから止なくして、観はないといってよいでしょう。


もしも止ができないで、観だけを試みるならば、それは、心の作用の止滅を伴いませんので、ヨーガスートラの求める瞑想になりえません。この点について誤解をしますと、サマディには到達できないでしょう。


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