2022-06-13 著者:小山一夫
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『水浴は良かった。
が、それは水であって、罪を洗い去りはしなかった。精神の渇をいやしはせず、心の不安を溶かしはしなかった。』
(新潮文庫より)
18歳からずっと1000日間にわたり水行を行い、冬は深山幽谷の滝に打たれていました。
当初密教の先達から、水行や滝行は、罪穢れを祓い清め、魂を清らかにする、と言われました。
それを信じて日夜がんばったわけですが、途中でそれらは信仰の産物であることに気付きました。
沐浴も滝行も単に体に水を当てるだけのものであり、水それ自体には、罪穢れを祓い清めるような神秘的な力などありません。
ただ、ヨーガのチャクラやクンダリーニ理論から考えた場合、全く無意味というわけではないこともわかりました。(かなり危険なのでお奨めはしませんが)
冬など厳しい寒さの中で滝に打たれたり、水を被りますと、一気に体温が下がります。
そこで体温に関する恒常性維持機能を鍛えるわけです。つまりどのくらいの時間で体温が戻るかをテーマにしていました。
滝から出ますと、歯が噛み合わないほど全身が冷えきっていますので、ガタガタ震えて、最初は体温が戻るまでに大分時間がかかりました。
そしてある日の明け方、まだはっきりと覚えていますが、濡れた白衣を脱ぐときに、全身からモクモクと湯気が立ち上りました。その刹那、不動明王の仏像ではありませんが、背中に、火炎を背負ったようなもの凄い熱とエネルギーの上昇を感じました。
予兆としては、その1週間前くらいから、護摩壇に向かうときになんとなく感じてはいたのですが、それにしても劇的な体験でした。