2022-06-22 著者:小山一夫
原文保存・内容校閲前/画像は元サイトから読み込みます。
さぐり求めること
『シッダールタは言った。
「私がおん身に何の語るべきことがあろうか、おん僧よ。おん身はあまりにさぐり求めすぎるとでも言うべきかもしれない。さぐり求めるために見いだすに至らないのだとでも」
「いったいどうして?」
とゴーヴィンダはたずねた。
「さぐり求めると」とシッダールタは言った。
「その人の目がさぐり求めるものだけを見る、ということになりやすい。また、その人は常にさぐり求めたものだけを考え、一つの目標を持ち、目標にとりつかれているので、何ものをも見いだすことができず、何ものをも心の中に受け入れることができない、ということになりやすい。
さぐり求めるとは、目標を持つことである。
これに反し、見いだすとは、自由であること、心を開いていること、目標を持たぬことである。
おん僧よ、おん身はたぶん実際さぐり求める人であろう。おん身は目標を追い求めて、目の前にあるいろいろなものを見ないのだから」』
(ヘッセ「シッダールタ」新潮文庫)
彼は「探り求めること」の是非を正面から問いかけています。
ヨーガスートラは、真我独存と共に純粋観照者への道を示しています。
観照とは、それこそ自由であること、心を開いていること、そして目標を持たぬこと、から起こります。
汗水流して熱心に頑張ることは美しいかもしれませんが、懸命に探り求めているうちは、観照には至りません。
観には、観想、観察、そして観照があります。
それぞれの意味の違いを自ら体験することによって、観照の持つ大いなる力を理解されてください。
観想や観察には作為が伴いますが、観照は無為の領域に於いて起こります。
私がヨーガを特定の宗教と結び付けたくないのは、まさに宗教の要求する信仰が、この観照を妨げるからなのです。
信仰を捨てなければ悟れない、という釈迦の真意もそこにあります。信仰無きヨーガの世界こそが、サマディへの道なのです。
「見るためには、あなたは一切の権威や伝統や恐怖、あるいは狡猾な言葉に満ちた思考から自由でなければならない。
真理はどこか遠くにあるのではなく、あるがままの現実を見きわめることにある。
あるがままの己れの姿を曇りなく、あれこれの判断を何らさしはさむことなく見ることこそは、一切の探求の始まりであり同時に終わりである。」
(「クリシュナムルティの瞑想録」平河出版社)