一般財団法人 野萩青少年育成財団
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真我と神我-9

2022-12-29 著者:小山一夫

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原始仏典・長寿王本起経では(「原始仏典」中村元監修)

「尊き師よ、わたしたちはだらけることなく、熱心に、みずから研鑽しており、光明を認め、像を見ます」

 

カタ・ウパニシャッドでは

「鏡のなかに(映る像のように)自己のなかに見られる」

 

曹洞宗の道元禅師は(「正法眼蔵」岩波文庫)

「仏性の現前せざる仏性あらざるなり」

「身心自然に脱落して、本来の面目現前せん」

 

つまり真我は、身心脱落(=心の作用の止滅)に至れば「観えて当たり前」ということなのです。これはヨーガの世界でも、初期の目標にすぎません。

 

またカタ・ウパニシャッドには「鏡のなかに(映る像のように)自己のなかに見られる」際の観え方の階梯として、①ぼんやりと、②不明確に、③くっきりと明確に、の三段階を記述していますが、実際には、それに加えて、真我の輝きの「大きさ」と「強さ」という階梯も忘れてはなりませんし、さらに言えば、真我の垢染の度合いによって、透明度も異なります。

 

ヨーガの瞑想は、とても深遠な世界です。ヨーガスートラの説く「心の作用の止滅、純粋観照、真我独存」は、瞑想の入り口に過ぎません。自分の真我が観えてから、真の瞑想が始まるのです。


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