2023-01-18 著者:小山一夫
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そこでヨーガの体験と比較しながら、もう一度大パリニッバーナ経に戻って、釈迦入滅のプロセスを検証してみましょう。
死とは、肉体機能の停止をその医学的判定基準としています。
脳や心臓の働きが停止した時に、死を宣告されるわけです。
つまり肉体があることが、死を迎える条件だということです。
定に入りますと、合一と融合へのプロセスに足を踏み入れることになります。
ここでは肉体感覚の消失を伴うので、実感として肉体を意識することができません。
呼吸による肺等の動きや血流なども当然認知できません。
さらに進んで無との融合を果たしますと、肉体どころか自らの存在そのものが希薄になってゆくことは、既に述べたとおりです。いわば生死を越えた状態にあるといってもいいでしょう。
これはヨーガからタントラへと踏み込んでゆくことで、個の意識領域を超えて、全体との合一・融合を果たすこととなりますので、そこでは個体としての死を素直に受け入れることができなくなります。
一方、四禅の最上位とはいえ、第四禅はまだ意が残っている段階です。
ですから脳を内観することで、生を認識することができます。
つまり死を受け入れることができる状態だということです。
ですからこのような理由で、釈迦はわざわざ、滅想受定から一旦初禅へ戻り、手探りで一つひとつ確認するかのようにステップを進め、そして四禅からニルヴァーナへ入られたのだと思います。
彼岸と涅槃は、悟りの境地としてはかなり近いものだとは思いますが、その目的と前提条件が異なるために、スッタニパータでは彼岸を、そして大パリニッバーナ経では涅槃を、そのゴールとしたのです。
つまり釈迦最後の旅の終着点は、帰還可能な彼岸ではなく、肉体の死を伴う涅槃でなければならなかったわけです。