2023-01-25 著者:小山一夫
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『この瞑想とは
慎重に選ばれた姿勢で、意識的に瞑想することではない。
この瞑想は全く意識することなく、
自分が瞑想しているということを決して知ることなく、なされるのである。
もし、計画的に瞑想するのなら、
他のどんな欲望の表現とも同じく、欲望の別の形となってしまう。
対象は変わるかもしれない。
自分の瞑想は最高のものに到達するかもしれない。
しかしその動機は、実業家や大聖堂の建築家と同じで、
何かを達成しようという欲望なのである。』
クリシュナムルティ「最後の日記」より
技術に固執し、願望や欲望を根底に置いた瞑想では、真のサマディに至ることはできません。
確かに「瞑想法」という形式的な技術も、それなりに様々な効果を与えてくれます。
私も真言密教修行時代に、現世利益的な修法を沢山学びましたし、ヨーガでも、日常生活に役立つ技法を種々修得することができました。
それはそれで大変貴重なものだと思いますので、それらの価値を認めることに私も賛成しています。
しかしながらサマディとなりますと、やはり顕教ヨーガの力が必要不可欠なのです。
人間として生まれてきて本当によかったと、心の底から、魂が震えるような感動を覚える体験は、残念ながら密教ヨーガでは得られません。
真のサマディは、自然無為の境地でのみ到達できるものなのです。
技術の奴隷である内は、到底得られるものではありません。