2023-02-22 著者:小山一夫
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どんなに汗を流して頑張っても、アーサナや呼吸法などに固執しているようでは、サマディは遥か彼方の境地であり、到達する事などできないでしょう。
マントラやムドラー、集中法や観想法など、小手先の所作が多ければ多いほど、余計な作為にまみれ、正しい<瞑想>にはなりません。それらは、本来のゴール(サマディ)から、かけ離れたものであることを知るべきです。
伝統や真伝という言葉の陰で、ヨーガの技法が形式に囚われたり、ただの観想遊戯に陥ってしまっては、ヨーガスートラの説くサマディなどそれこそ夢のまた夢です。
真我が有形であるならば、作為的な所作もありえますが、真我は有形ではなく、無形なのです。
従ってサマディへのアプローチも無形でなければなりません。
”無形を以って無形に対する”
ヨーガスートラは、まさにそれを要求しているのです。
ですから、形骸化し、無用な作為にまみれたヨーガでは、存在の深みに触れることなど到底出来ません。ヨーガがその真価を明らかにするためにも、今、その真実が問われるべきだと思います。
「瞑想してはならない―在りなさい!
あなたは在ると考えてはならない―在りなさい!
在ることについて考えてはならない―あなたは在る!」
『あるがままに』 ナチュラルスピリット