2023-06-11 著者:小山一夫
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『これから瞑想の行為にとりかかろうと試みることは
瞑想に入ることではない。
それはいざ善良たろうと志しても、
おのずからなる善性が花開くことがないのと同じである。
素直な心についても、養おうとすればもはやそれは消えてしまう。
瞑想は、ふと窓を開け放てば吹き入る微風のようなものである。
それゆえ、意図的に窓を開けておこうとしたり、
招き寄せようと試みれば、決して姿を現わすことはない。
思考は絶えず様々な自己欺瞞に陥りやすい狡猾なものであり、
それゆえ瞑想のありようとは明らかに一線を画する。
愛と同様、瞑想を追い求めることはできない。』
「クリシュナムルティの瞑想録」平河出版
道元の説く身心脱落は、ヨーガスートラの境地そのものですが、作為的努力の積み重ねによって到達すると考えていたら、それは大きな間違いです。
クリシュナムルティの言うように「意図的に窓を開けておこうとしたり、招き寄せ」るのでは、決してサマディは訪れないでしょう。
なぜなら
「瞑想は、ふと窓を開け放てば吹き入る微風のようなもの」だからです。
アーサナや観想に励んだり、マントラを懸命に唱えても、ヨーガスートラの説くサマディは、その片鱗すら味わえないでしょう。
道元は次のように語っています。
「この単伝正直の仏法は最上のなかに最上なり。
参見知識のはじめより、さらに焼香、礼拝、念仏、修懺、看経をもちいず
祇管に打坐して身心脱落することを得よ。」
仏教修行の定番ともいえる「焼香、読経、念仏、礼拝」など何もいらない。
祗管打座、つまり坐(参)禅のみにして余分なものを一切廃せよ、という道元に、私は瞑想のエッセンスを感じます。