2024-11-01 著者:小山一夫
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禅の十牛図について技術的な側面から解説します。
(「悟りに至る十牛図瞑想法」より)
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師の役割
これまでのところを整理してみよう。まず、坐禅もウパニシャッドの瞑想もともに(原則として)一人でするものではない。老師やグルの傍らに坐り、師のまとう禅定の雰囲気に同一化する必要がある。そして老師やグルは、弟子たちを言葉ではなく体験を以って三昧へと導く。つまり、師は傍らに坐られるためにいる、といっても過言ではないだろう。坐禅に際し老師が先に禅定に入らなければならない理由について、道元は次のように述べている。
「万法に証せらるゝといふは、自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり」
これは正法眼蔵・現成公案の一文だが、この前段にはかの有名な「佛道をならふといふは、自己をならふ也。自己をならふといふは、自己をわするゝなり。自己をわするゝといふは、万法に証せらるゝなり。」がある。
「万法に証せらるゝ」とは、「万法のあり方通りになること」(「正法眼蔵」岩波文庫)であり、万法には「あらゆる事物」、「一切の存在」、「現象となって現われた真理」(「佛教語大辞典」)などの意味がある。また、「証(證)」は、「さとること」、「無上の真理を身をもって実現すること」、「~に到達する」、「~を実現する」などの意味を持つ。
従って「万法に証せらるゝ」とは、”一切の存在の本質に到達する”とか”現象となって現われた無上の真理を身をもって実現する”などと解釈していいだろう。そしてその結果、或(あるい)は同時に、自己の身心脱落が起きるというわけだが、ここで注目すべきは、自己のみならず「他己の身心」をも脱落せしむるという点だ。
傍らに坐る弟子たちに同一化を実現するための準備ができていないと中々そうはならないが、いずれにせよ、これこそが師(グル)の師たる所以だと言っていい。要は、師は自分が「万法に証せらるゝ」ことで身心脱落に到り、その雰囲気を身にまとう。それによって周囲の気質が変化し、傍らに坐る弟子達に”同一化可能な場”を提供するわけだ。