2024-12-04 著者:小山一夫
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禅の十牛図について技術的な側面から解説します。
(「悟りに至る十牛図瞑想法」より)
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第3章 第一図 尋牛
序
従来不失、何用追尋
由背覚以成疎、在向塵而遂失
家山漸遠、岐路俄差
得失熾然、是非鋒起
従来失せず、何ぞ追(つい)尋(じん)を用いん
背(はい)覚(かく)に由(よ)って以(もっ)て疎(そ)と成り、向(こう)塵(じん)に在(あ)って遂(つい)に失す
家(か)山(ざん)漸(ようや)く遠く、岐(き)路(ろ)俄(にわか)に差(たが)う
得失熾(し)然(ねん)として、是非(ぜひ)鋒(ほう)起(き)す
頌
茫茫撥草去追尋
水闊山遙路更深
力尽神疲無処覓
但聞楓樹晩蝉吟
茫々(ぼうぼう)として草を撥(はら)い去って追尋す
水闊(ひろ)く山遙(はる)かにして路(みち)更に深し
力尽き神(しん)疲れて覓(もと)むるに処(ところ)無し
但(た)だ聞く楓(ふう)樹(じゅ)に晩(ばん)蝉(せん)の吟(ぎん)ずることを
仏教では、発(ほつ)菩提(ぼだい)心(しん)を大事にする。”初心忘れるべからず”とは仏教に限った話ではないが、道を見失わないためにも、初心は常に心の片隅に置いておく方がいい。だが、この初心はある段階でさらなる高みへと昇(しょう)華(か)することが求められる。もちろん求(ぐ)道(どう)の当初は、自らの悟りという個人的な目標から始まることが多いだろう。中には最初から衆生済(さい)度(ど)などを考える人もいるかもしれないが、恐らく大方は自らが救われることがまず念頭にあるのではないだろうか。
しかしながらヨーガでは、自分の悟りを得ることに固執していたら、サマディに入るのは困難だと考える。これは古神道でも同じ見解だ。詳しくは後述するが、天命というか、惟神(かむながら)というか、”個”を超えたもっと気(け)高(だか)い目標を持つことが大事なのだ。個人の悟りなどそこに到る道の途中で自然と起こる。自らの悟り云々(うんぬん)に囚(とら)われているうちは「見牛」すら無理だろう。
「我がために仏法を学する事無きなり。ただ、道のために学すべし」。(「正法眼蔵随聞記」)