2024-11-08 著者:小山一夫
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禅の十牛図について技術的な側面から解説します。
(「悟りに至る十牛図瞑想法」より)
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水想観
水想観という観法がある。佛教語大辞典によれば先ず「もっぱら水を観想すること。結果として水の中で自然の状態となって、身体の内外に水が現出する。水定ともいう。」とあるが、これは観無量寿経の説く十六観のひとつとは異なるものだ。後者は「水の清いことをまず観じ、次第に進めて浄土の大地、瑠璃(るり)の大地を感ずるに至る。」(佛教語大辞典)という意味だ。
前者では、「水の中で自然の状態となって、身体の内外に水が現出する」とあるが、これは実際に身体の内外に水が溢れてくるわけではない。先程述べたように、内外のプラーナの波立ちがまさに濃密な水の流れのように感じられることから出た体験的な表現だと思う。
ところで、「碧巌録」第43則に「心頭を滅却すれば火も自ずから凉し」という言葉がある。だが、こちらはちょっと納得がゆかない。なぜなら心頭滅却できた時は、相対的な意味での感覚が消失するからだ。つまり、涼しいも暑いも感じない。従って「凉し」というのなら、まだ心頭滅却できていないことになる。
かつて密教(真言宗醍醐派)の修行をしていた頃、冬は深山幽谷での滝行、そして毎月のように火渡り修行を行なっていた。火渡り修行は正しくは火生三昧といい、火と一体化するものだ。最初は燃え盛る火の近くに行くだけでその強烈な熱さに驚いたが、この修行では膝や腰ほどの高さの火力の中を素足で歩かなければならない。
”不動明王の三昧に入れば熱くない”と言われても、”熱いものは熱い”と気後れしたものだが、プラーナーヤーマによって身の脱落が上達するにつれ、かなり楽に渡れるようになった。数十回修行したが、最後の頃は随分違った。ヨーガスートラにもアーサナのところで「その時、行者はもはや寒熱、(中略)等の相対的状況によって悩まされることはない」(「ヨーガ根本経典」)と書かれているが、確かにその通りだった。