一般財団法人 野萩青少年育成財団
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禅の十牛図 考-26

2024-11-07 著者:小山一夫

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禅の十牛図について技術的な側面から解説します。
(「悟りに至る十牛図瞑想法」より)
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皮膚脱落と透体脱落
禅では、しばしば皮膚脱落という言葉を使う。「禅の思想辞典」によれば、「皮膚は煩悩などの余計なものを表し、その束縛から解放されることを脱落といい、解脱と同義である。」とあるが、私はそう解釈しない。

 

なぜなら”肉体が周囲の空間に融けてゆくような感覚となり、どこまで自分の身体なのか境がわからなくなる”ことこそ、文字通り皮膚脱落そのものだからだ。皮膚とは肉体の一番外側にあるものであり、それが脱落するというのは、境が無くなることに他ならない。

 

それは大乗経典の涅槃経を見てもわかる。そこには、「其の樹陳朽して皮膚・枝葉・悉く皆脱落し、唯だ貞実のみ在るが如し」(「禅の思想辞典」)とある。八支則の修行が進んでくると、皮膚脱落の次に、枝葉、つまり両手両足の指先から、腕や脚、体幹へと肉体の感覚が順に無くなってゆく。だからこの涅槃経の記述は全くもって正しい。


道元も「透体脱落」(「正法眼蔵・仏性」)という言葉を使っているが、これは「全体を突き抜けてすっかり脱しきってしまう」(「禅の思想辞典」)ことを意味している。

 

ヨーガでは、外部のプラーナが波立った後、それを体表で受け止めずに体内へ透過させる。すると、自分の身体が透き通って無形になったような感覚になる。その時初めて第一段階の身の脱落といえる状態になるわけだが、その後さらに凝念・静慮を経て全身の感覚が消失してゆく。だから体験的に見ても「透体脱落」とは実に適切な表現だと思う。もちろん、ただ長時間延々と坐って、数息観で呼吸を数えたり、雑念を消そうと努力しても、このような境地は得られない。

 

坐禅には、然るべきやり方があるのだ。

 


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