一般財団法人 野萩青少年育成財団
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禅の十牛図 考-46

2024-11-27 著者:小山一夫

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禅の十牛図について技術的な側面から解説します。
(「悟りに至る十牛図瞑想法」より)
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カタ・ウパニシャッドにおける穢れ観
さて牛(象・馬)の色の話に戻ろう。ヨーガやウパニシャッドと原始仏教が同じ目標と修行原理を持っていたとすると、そこに登場するアイテムにも何等かの対応関係があると考えられる。


たとえば仏性だ。前述のように”仏性は垢染する”つまり穢れるわけだが、これはウパニシャッドにおいて何に相当するのだろう。単純に仏性をアートマンと解釈すると、アートマンも穢れることになるが、ウパニシャッドでは”アートマンは行為等に関わらず絶対に穢れない”とされている。だとすると、仏性=アートマンという図式は成り立たない。


ヨーガスートラやウパニシャッドを開くと、しばしば「真我」という語に遭遇する。真我とは文字通り「真の我」だが、その原語はふたつある。つまりふたつの語に真我というひとつの訳語が充てられているわけだ。それはプルシャと、その構成要素の一つであるアートマンだ。


アートマンは「非ず、非ずのアートマン」と言われるように、”余分なものを徹底的に取り除いた最後に残るもの”というように定義付けされている。つまりアートマンには穢れは一切付着しないというわけだ。

 

他方、プルシャにはそのような定義付けはなされていない。だから穢れるとすればプルシャの方、ということになる。従って、仏性=プルシャ(真我)とすれば、話の辻褄が合う。では、垢染して穢れた仏性は仏教の修行によって穢れが除かれ輝きを取り戻すが、プルシャはどうなのだろう。

 


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