一般財団法人 野萩青少年育成財団
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禅の十牛図 考-57

2024-12-08 著者:小山一夫

原文保存・内容校閲前/画像は元サイトから読み込みます。

禅の十牛図について技術的な側面から解説します。
(「悟りに至る十牛図瞑想法」より)
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第3章 第一図 尋牛


序
従来不失、何用追尋
由背覚以成疎、在向塵而遂失
家山漸遠、岐路俄差 
得失熾然、是非鋒起

従来失せず、何ぞ追(つい)尋(じん)を用いん
背(はい)覚(かく)に由(よ)って以(もっ)て疎(そ)と成り、向(こう)塵(じん)に在(あ)って遂(つい)に失す
家(か)山(ざん)漸(ようや)く遠く、岐(き)路(ろ)俄(にわか)に差(たが)う
得失熾(し)然(ねん)として、是非(ぜひ)鋒(ほう)起(き)す

頌
茫茫撥草去追尋
水闊山遙路更深
力尽神疲無処覓
但聞楓樹晩蝉吟

茫々(ぼうぼう)として草を撥(はら)い去って追尋す
水闊(ひろ)く山遙(はる)かにして路(みち)更に深し
力尽き神(しん)疲れて覓(もと)むるに処(ところ)無し
但(た)だ聞く楓(ふう)樹(じゅ)に晩(ばん)蝉(せん)の吟(ぎん)ずることを

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「『探り求めると』とシッダールタは言った。

『その人の目がさぐり求めるものだけを見る、ということになりやすい。また、その人は常にさぐり求めたものだけを考え、一つの目標を持ち、目標にとりつかれているので、何ものをも見いだすことができず、何ものをも心の中に受け入れることができない、ということになりやすい。

さぐり求めるとは、目標を持つことである。これに反し、見いだすとは、自由であること、心を開いていること、目標を持たぬことである。

おん僧よ、おん身はたぶん実際さぐり求める人であろう。おん身は目標を追い求めて、目の前にあるいろいろなものを見ないのだから。』」(「シッダールタ」ヘッセ 新潮文庫)


彼は、”探り求めること”の是非を正面から問いかけている。

例えば、ヨーガスートラは真我独存と共に純粋観照者への道を示しているが、観照とはそれこそ、自由であること、心を開いていること、そして目標を持たぬこと、から起こる。汗水流して熱心に頑張ることは美しいかもしれないが、懸命に何かを探り求めているうちは、観照には至れない。
 


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