一般財団法人 野萩青少年育成財団
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禅の十牛図 考-90

2025-01-10 著者:小山一夫

原文保存・内容校閲前/画像は元サイトから読み込みます。

禅の十牛図について技術的な側面から解説します。
(「悟りに至る十牛図瞑想法」より)
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第3章 第三 見牛


序
従声得入、見処逢源
六根門著著無差、動用中頭頭顕露
水中塩味、色裏膠青
貶上眉毛、但非他物

声より得入(とくにゅう)すれば、見処(けんじょ)源に逢う
六根(ろっこん)門 著々(じゃくじゃく)差(たが)うこと無し、動(どう)用(よう)の中頭々(ずず)顕(けん)露(ろ)す
水中の塩味、色(しき)裏(り)の膠(こう)青(せい)
眉毛(びもう)を貶上(さつじょう)すれば、是れ他物(たもつ)に非ず

頌
黄*枝上一声声日
暖風和岸柳青
只此更無廻避処
森森頭角画難成

黄(こう)*(おう)鶯枝上 一声声
日暖かに風おだやかにして岸柳青し
只此れ更に廻(かい)避(ひ)する処無し
森々たる頭(ず)角(かく) 画(えが)けども成り難し
 

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祗管打坐の真義


祗(只)管打坐は、一般に”ただ、ひたすら坐り続ける”かの如(ごと)く思われているが、それは間違いだと思う。ひたすらとは、「ただその事だけに心が向かうさま。いちず。ひたぶる。すっかり。全く」といった意味であって、そこには長時間何かの行為をし続けるという意味はない。


「禅の思想辞典」では、祗(只)管打坐は、「ただ坐禅すること」、「人間的な作為を一切止めて(不為)、自己の正体そのものになること」と説明されている。ここで強調されているのは、まさに「不為(ふい)」に他ならない。実際にやってみればわかるが、「不為」を実現するのは相当に難しい。だから単に長時間坐り続ければいいというわけじゃない。


次の論点は「管」だ。只管も祗管も一般には、「ただそのことばかりに心を用いること、ひたすら、ひとすじに」といった意味だとされているが、只や祗はともかく管にはそのような意味はない。「管」の漢字をそのまま読めば、只管は「ただの管」とか「ひたすら管」となる。でもこれでは只管打坐と言う時に、坐禅との兼ね合いで何を意味するのかよくわからない。だから「管」の意味付けを無視したのだと想う。

 

だが、この「管」にはとても大きな意味が隠されているのだ。

 

正法眼蔵・辯道話には「いまをしふる功(く)夫(ふう)辨道は、証上に万法(まんぼう)をあらしめ、出路に一如を行ずるなり。その超関脱落のとき、この節(せち)目(もく)にかかはらむや。」などと書かれているが、これなどまさに管を重視した「祗管」の意味にピッタリと符合する。これについては「得牛」のところで詳解したい。
 


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