一般財団法人 野萩青少年育成財団
記事一覧に戻る

禅の十牛図 考-85

2025-01-05 著者:小山一夫

原文保存・内容校閲前/画像は元サイトから読み込みます。

禅の十牛図について技術的な側面から解説します。
(「悟りに至る十牛図瞑想法」より)
***********************************************

 

第3章 第三 見牛


序
従声得入、見処逢源
六根門著著無差、動用中頭頭顕露
水中塩味、色裏膠青
貶上眉毛、但非他物

声より得入(とくにゅう)すれば、見処(けんじょ)源に逢う
六根(ろっこん)門 著々(じゃくじゃく)差(たが)うこと無し、動(どう)用(よう)の中頭々(ずず)顕(けん)露(ろ)す
水中の塩味、色(しき)裏(り)の膠(こう)青(せい)
眉毛(びもう)を貶上(さつじょう)すれば、是れ他物(たもつ)に非ず

頌
黄*枝上一声声日
暖風和岸柳青
只此更無廻避処
森森頭角画難成

黄(こう)*(おう)鶯枝上 一声声
日暖かに風おだやかにして岸柳青し
只此れ更に廻(かい)避(ひ)する処無し
森々たる頭(ず)角(かく) 画(えが)けども成り難し
 

****************************

 

仏性というと抽象的でただの概念のように誤解しがちだが、事実はそうではない。感覚器官でもその趣(おもむ)きを感じ取ることができる。そして見性というが如く、文字通り”観(み)る”ことも可能だ。”仏性が観えるわけないじゃないか”という方もいるだろう。だがそれは間違いだと言いたい。道元は言う。「本来面目現ずるとき」(正法眼蔵・辯道話)、「これ仏性の現前なり」、「仏性の現前せざる仏性あらざるなり」(正法眼蔵・仏性)。


これについてはカタ・ウパニシャッドにも、「(アートマンは)鏡の中に(映る像)のように、自己の中に見られる」とある。いつも思うが、この表現は実に秀逸だ。アートマンの「顧(かえりみ)る働き」によって、本当にこの言葉通りの感触で観照できるからだ。


同様の記述は「日本書紀」にも見られる。「時に神(あや)しき光海(うな)に照して、忽然に浮かび来る者有り」、「大己貴神(おほあなむちのかみ)問いて曰はく、『しからば汝は是誰ぞ』とのたまふ。対へて曰はく、『吾は是汝(いまし)が幸(さき)魂、奇(くし)魂なり。』といふ。大己貴神の曰はく、『唯(し)然(か)なり。廼(すなはち)ち知りぬ。汝は是吾が幸魂奇魂なり』」。大己貴神は、自らの四魂の一部を観たのだ。これこそまさに現前に他ならない。


もちろん始めからはっきりと観えるわけではない。仏性は覚の働きを用いることによって、少しずつ顕わになってくるが、最初は輪郭がはっきりしていないので、それだけをきちんと観ることはできない。確かな感触はあっても、ぼやけていて明確に観照するのは難しい。しかし真摯に観照を凝(こ)らせば、他のものではなく自らの仏性に他ならないことがわかるだろう。
 


元記事