一般財団法人 野萩青少年育成財団
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禅の十牛図 考-93

2025-01-13 著者:小山一夫

原文保存・内容校閲前/画像は元サイトから読み込みます。

禅の十牛図について技術的な側面から解説します。
(「悟りに至る十牛図瞑想法」より)
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第3章 第三 見牛


序
従声得入、見処逢源
六根門著著無差、動用中頭頭顕露
水中塩味、色裏膠青
貶上眉毛、但非他物

声より得入(とくにゅう)すれば、見処(けんじょ)源に逢う
六根(ろっこん)門 著々(じゃくじゃく)差(たが)うこと無し、動(どう)用(よう)の中頭々(ずず)顕(けん)露(ろ)す
水中の塩味、色(しき)裏(り)の膠(こう)青(せい)
眉毛(びもう)を貶上(さつじょう)すれば、是れ他物(たもつ)に非ず

頌
黄*枝上一声声日
暖風和岸柳青
只此更無廻避処
森森頭角画難成

黄(こう)*(おう)鶯枝上 一声声
日暖かに風おだやかにして岸柳青し
只此れ更に廻(かい)避(ひ)する処無し
森々たる頭(ず)角(かく) 画(えが)けども成り難し
 

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三十七品菩提分法


三十七品菩提分法とは、中阿含経等で説かれた釈迦の「解脱に到る三十七種の修行法」をいい、四念住・四正断・四神足・五根・五力・七覚支・八正道の七科に大別されている。これらを宗教的教義に沿って学ぶのもいいが、私は純粋に技術書として研究した。


例えば四念住の最初は身念住といい、「わが身は不浄である」として不浄観の観法を行なうとされている。だが阿含経典のままに実行してよいものなのか、私は些か疑問に思う。何を目的として行なうのか、どのような原理で如何なる結果へ導かれるのか、を精査する必要がある。


道元は言う。「観身不淨といふは、いまの観身の一袋皮は尽十方界なり」。つまり観身不浄を、自らがそのまま全宇宙であると観ずることだとし、さらに浄不浄の超越を説く。自分の身体が不浄だと自らに言い聞かせ、死体の腐乱を観想し続けることにどんな意味があるのか?と首を傾げていた私にとって、この道元の解釈は鮮烈な一撃だった。経典の字面をそのまま鵜呑みにするのではなく、道元のように叡智をもって理解してゆくべきなのだ。


そこでこの勉強方法だが、とりあえず阿含経典を何度か読み、七科に関わる経典を選び出す。そしてテーマ別にコピーしてファイルを作る。次に道元の著書(正法眼蔵等)を手掛かりに再度熟読するとともに、三十七品菩提分法からやや範囲を広げ、或いは細分化し、四禅、四無色定、止観、身心脱落、露柱等々幅広くキーワードを選び新たなファイルを増補する。その後さらに禅定経典、無門関や碧巌録などの語録、摩訶止観、天台小止観、菩提道次第論、ウパニシャッド等々役立ちそうな文献を随時開きながら、必要な部分のコピーを各ファイルに追加しつつ内容を整理してゆく。ある程度の知識と禅定経験があれば、整理が進むにつれて”なるほど”と頷(うなず)くことが多いはずだ。
 


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