一般財団法人 野萩青少年育成財団
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禅の十牛図 考-102

2025-01-22 著者:小山一夫

原文保存・内容校閲前/画像は元サイトから読み込みます。

禅の十牛図について技術的な側面から解説します。
(「悟りに至る十牛図瞑想法」より)
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第3章 第三 見牛


序
従声得入、見処逢源
六根門著著無差、動用中頭頭顕露
水中塩味、色裏膠青
貶上眉毛、但非他物

声より得入(とくにゅう)すれば、見処(けんじょ)源に逢う
六根(ろっこん)門 著々(じゃくじゃく)差(たが)うこと無し、動(どう)用(よう)の中頭々(ずず)顕(けん)露(ろ)す
水中の塩味、色(しき)裏(り)の膠(こう)青(せい)
眉毛(びもう)を貶上(さつじょう)すれば、是れ他物(たもつ)に非ず

頌
黄*枝上一声声日
暖風和岸柳青
只此更無廻避処
森森頭角画難成

黄(こう)*(おう)鶯枝上 一声声
日暖かに風おだやかにして岸柳青し
只此れ更に廻(かい)避(ひ)する処無し
森々たる頭(ず)角(かく) 画(えが)けども成り難し
 

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天台小止観の求める「猶(なお)如矴(いかり)石(いし)」(あたかも矴石のごとく)とは、快適さと確かな安定をもった「坐」ということだ。道元も「兀兀(ごつごつ)坐(ざ)定(じょう)して」(「辯道法」)と言っているが、これらは単に外見的な姿勢が整うことを求めているわけではない。なぜなら問題は「坐」の質にあるからだ。ヨーガスートラのアーサナも同様に快適さと安定を求めるが、それには「心が無辺なものに合一することによって得られる」という条件がつく。「坐」が形骸化しないためにも、この点について留意されたい。


次は気息についてだが、これには3法あるという。まず心を身体の下方(臍下丹田)に落ち着かせ、次に身体を寛(かん)放(ほ)(ゆるやかに解き放つ)し、全身の毛穴からあまねく気が出入していると想う。天台小止観には書いていないが、私はこの時自分が生きていることを実感するように心掛けている。
 


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