2025-03-12 著者:小山一夫
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禅の十牛図について技術的な側面から解説します。
(「悟りに至る十牛図瞑想法」より)
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第3章 第三 見牛
序
従声得入、見処逢源
六根門著著無差、動用中頭頭顕露
水中塩味、色裏膠青
貶上眉毛、但非他物
声より得入(とくにゅう)すれば、見処(けんじょ)源に逢う
六根(ろっこん)門 著々(じゃくじゃく)差(たが)うこと無し、動(どう)用(よう)の中頭々(ずず)顕(けん)露(ろ)す
水中の塩味、色(しき)裏(り)の膠(こう)青(せい)
眉毛(びもう)を貶上(さつじょう)すれば、是れ他物(たもつ)に非ず
頌
黄*枝上一声声日
暖風和岸柳青
只此更無廻避処
森森頭角画難成
黄(こう)*(おう)鶯枝上 一声声
日暖かに風おだやかにして岸柳青し
只此れ更に廻(かい)避(ひ)する処無し
森々たる頭(ず)角(かく) 画(えが)けども成り難し
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Step-5.純粋観照者の出現~仏性(真我)を観る
普勧坐禅儀に、「言を尋ね語を逐うの解行を休すべし、須らく回光返照の退歩を学すべし。身心自然に脱落して、本来の面目現前せん。」とある。またヨーガスートラでも、「心の作用が止滅されてしまった時には、純粋観照者である真我は自己本来の状態にとどまることになる。」と説いている。このようにパタンジャリは道元と同じことを言っているが、いずれにしても、一定の条件が満たされれば、本来の面目、仏性、真我なるものを観照することができるわけだ。
さて道元はここで、身心脱落が自然に起こり、その後に本来の面目を目の当たりにする、と説いているが、その条件は「言を尋ね語を逐うの解行を休すべし、回光返照の退歩を学すべし」だ。この回光返照とは、どういう意味なのだろうか。その辺りを詳しく見てみよう。
回光返照とは、「自己を省みて、自己の中にある本来の面目を明らかにすること」(「禅の思想辞典」)、「自己の本来のすがたを回顧し、反省して修道すること。自分自身をふりかえってみること」(「佛教語大辞典」)だと言う。
次に返照を調べてみよう。大辞泉によれば、「光が照りかえすこと。照り返し」、「真実の自己に照らして内省すること」などの意味になる。
確かに、その通りだと思う。だが、「身心自然に脱落して、本来の面目現前せん」に直結する「回光返照の退歩」とは、単に反省したり、ふりかえったりする程度でよいのだろうか。自己を省みるくらいで、自己の中にある本来の面目を明らかにすることができるだろうか?