2025-02-26 著者:小山一夫
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禅の十牛図について技術的な側面から解説します。
(「悟りに至る十牛図瞑想法」より)
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第3章 第三 見牛
序
従声得入、見処逢源
六根門著著無差、動用中頭頭顕露
水中塩味、色裏膠青
貶上眉毛、但非他物
声より得入(とくにゅう)すれば、見処(けんじょ)源に逢う
六根(ろっこん)門 著々(じゃくじゃく)差(たが)うこと無し、動(どう)用(よう)の中頭々(ずず)顕(けん)露(ろ)す
水中の塩味、色(しき)裏(り)の膠(こう)青(せい)
眉毛(びもう)を貶上(さつじょう)すれば、是れ他物(たもつ)に非ず
頌
黄*枝上一声声日
暖風和岸柳青
只此更無廻避処
森森頭角画難成
黄(こう)*(おう)鶯枝上 一声声
日暖かに風おだやかにして岸柳青し
只此れ更に廻(かい)避(ひ)する処無し
森々たる頭(ず)角(かく) 画(えが)けども成り難し
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Step-4.心の脱落~心の作用の止滅
ヨーガスートラには、「調気法(プラーナーヤーマ)を行ずることによって、心の輝きを覆いかくしていた煩悩が消滅する」とある。プラーナーヤーマを行ずる過程で、我々は様々な体験を得るが、心の作用の止滅はかなり難しい。ヨーガスートラでもそこに至るために、2系統の瞑想法を説いている。だがそれらを理解するには、三昧と定について検討する必要がある。
先ず三昧(サマディ)についてだが、ヨーガスートラには「その静慮が、外見上、その思念する客体ばかりになり、自体をなくしてしまったかのようになった時が、三昧とよばれる境地である」とある。佐保田博士は「心理学的にいえば、主観の存在が忘れ去られて、客体だけが意識の野(や)を占領する状態である」と説明されているが、まさしくその通りだと思う。
私は「意と識の分離」というように解釈しているが、そもそもヨーガで止滅させる対象は”意”であって”識”ではない。なぜなら識は、意の働くフィールドであって、ヨーガの技術によって止滅させることはできないからだ。つまり、識なくして個の存在もない。またこの識は、個を超えて全体とも繋がっている。だからこそそこに全体との合一と融合つまりウパニシャッドへの道が開かれるわけだ。後述するが、ヨーガは意と”個の段階の識”を対象とし、ウパニシャッドは”個”を超えたより深く広い領域を対象としている。
前述のように、ヨーガスートラはこの三昧について2系統の瞑想法を挙げているが、その理由を考えることはヨーガの本質を知る上で大きな意味を持つ。