一般財団法人 野萩青少年育成財団
記事一覧に戻る

禅の十牛図 考-148

2025-03-09 著者:小山一夫

原文保存・内容校閲前/画像は元サイトから読み込みます。

禅の十牛図について技術的な側面から解説します。
(「悟りに至る十牛図瞑想法」より)
***********************************************

 

第3章 第三 見牛


序
従声得入、見処逢源
六根門著著無差、動用中頭頭顕露
水中塩味、色裏膠青
貶上眉毛、但非他物

声より得入(とくにゅう)すれば、見処(けんじょ)源に逢う
六根(ろっこん)門 著々(じゃくじゃく)差(たが)うこと無し、動(どう)用(よう)の中頭々(ずず)顕(けん)露(ろ)す
水中の塩味、色(しき)裏(り)の膠(こう)青(せい)
眉毛(びもう)を貶上(さつじょう)すれば、是れ他物(たもつ)に非ず

頌
黄*枝上一声声日
暖風和岸柳青
只此更無廻避処
森森頭角画難成

黄(こう)*(おう)鶯枝上 一声声
日暖かに風おだやかにして岸柳青し
只此れ更に廻(かい)避(ひ)する処無し
森々たる頭(ず)角(かく) 画(えが)けども成り難し
 

****************************

 

やはりヨーガスートラや摩訶止観、そして菩提道次第論が説くように、止観が必須なのだ。だが、ここでひとつ大事なポイントがある。ツォンカパも菩提道次第論に「先に止住を達成してから、それに依って勝観を修習する」と書いているように、止観には順序が決められており、”止なくして、観はない”ということだ。もし観が止の先にくるならば、その観は”観照”にはならない。


それともうひとつ止観の妨げになるものがある。それは信仰だ。前述したように「スッタニパータ」の最終章でも、信仰を捨てなければ彼岸(サマディ)に至ることはできないとされている。


佐保田博士の「ヨーガの宗教理念」には、あるヨーギがどうしても信仰を捨てきれず、見かねたグルがガラスの破片を彼の眉間に突き刺して、信仰心を切り離そうとした逸話も出てくる。(彼はその後ようやくサマディに入ることができた。)


要するに、観想や信仰等、余分なものがなくならないと、本来のサマディに入ることはできないということなのだ。
 


元記事