2025-03-07 著者:小山一夫
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禅の十牛図について技術的な側面から解説します。
(「悟りに至る十牛図瞑想法」より)
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第3章 第三 見牛
序
従声得入、見処逢源
六根門著著無差、動用中頭頭顕露
水中塩味、色裏膠青
貶上眉毛、但非他物
声より得入(とくにゅう)すれば、見処(けんじょ)源に逢う
六根(ろっこん)門 著々(じゃくじゃく)差(たが)うこと無し、動(どう)用(よう)の中頭々(ずず)顕(けん)露(ろ)す
水中の塩味、色(しき)裏(り)の膠(こう)青(せい)
眉毛(びもう)を貶上(さつじょう)すれば、是れ他物(たもつ)に非ず
頌
黄*枝上一声声日
暖風和岸柳青
只此更無廻避処
森森頭角画難成
黄(こう)*(おう)鶯枝上 一声声
日暖かに風おだやかにして岸柳青し
只此れ更に廻(かい)避(ひ)する処無し
森々たる頭(ず)角(かく) 画(えが)けども成り難し
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②「止」へのプロセス
止観の考え方は、禅をはじめとする仏教、チベット密教、ウパニシャッド、古神道などに採用されている。悟りに到る瞑想の基本だと言っても過言ではないだろう。だが「止」へのプロセスは様々だ。例えば古神道などは、釈迦と同じく信仰の放棄を説いているため、余分なものもなく一直線にそれだけを追及してゆく。そこで、それぞれのスタンスについて考察したい。
一般に、瞑想というと、何かのイメージを思い浮かべたり(観想)、真言(マントラ)を唱えたり、集中を繰り返したりと、作為的な努力に専念することだと思っている方が少なくない。だが、それは禅定(サマディ)のための瞑想とはかけ離れたものだ。
道元は正法眼蔵・辯道話で次のように説いている。「参見知識のはじめより、さらに焼香・礼拝・念仏・修懺(しゃさん)・看経をもちゐず、たゞし打坐して身心脱落することをえよ。」
彼は、祗管打座つまり坐禅こそが正伝の仏法であり、読経も礼拝も全て用いない、と宣言している。そして、ただ声をあげてお経を読んでいるのは、春の田んぼのカエルが昼夜暇(ひま)なく鳴いているのと同じで「益なし」(「正法眼蔵・辯道話」)と断じている。実に確信に満ちた見解だ。