一般財団法人 野萩青少年育成財団
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禅の十牛図 考-147

2025-03-08 著者:小山一夫

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禅の十牛図について技術的な側面から解説します。
(「悟りに至る十牛図瞑想法」より)
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第3章 第三 見牛


序
従声得入、見処逢源
六根門著著無差、動用中頭頭顕露
水中塩味、色裏膠青
貶上眉毛、但非他物

声より得入(とくにゅう)すれば、見処(けんじょ)源に逢う
六根(ろっこん)門 著々(じゃくじゃく)差(たが)うこと無し、動(どう)用(よう)の中頭々(ずず)顕(けん)露(ろ)す
水中の塩味、色(しき)裏(り)の膠(こう)青(せい)
眉毛(びもう)を貶上(さつじょう)すれば、是れ他物(たもつ)に非ず

頌
黄*枝上一声声日
暖風和岸柳青
只此更無廻避処
森森頭角画難成

黄(こう)*(おう)鶯枝上 一声声
日暖かに風おだやかにして岸柳青し
只此れ更に廻(かい)避(ひ)する処無し
森々たる頭(ず)角(かく) 画(えが)けども成り難し
 

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私の尊敬するクリシュナムルティも、「クリシュナムルティの瞑想録」において、「瞑想は言葉を反復することでも、まぼろしを目のあたりにすることでも、あるいは沈黙を養うことでもない。数珠(じゅず)や経文は、精神の雑音を静めはしても、結局のところ一種の自己催眠にすぎず、催眠薬を口にするようなものである。」と明言している。


つまりマントラや観想などのデコレーションが多ければ多いほど、本来のサマディから離れてゆくのだ。彼は同著でさらに「言葉や祈願を復唱するのは自己催眠的な行為であり、自己閉鎖的で破壊的なものである。」とも述べている。


30年位前、チベット密教の奥義書「マハムドラーの詩」を読んだ時、正法眼蔵と同じことが書かれていてとても驚いた。「チベットの偉大なヨギー ミラレパ」に掲載されているが、「マントラ(真言)やパーラミーター(至彼岸の菩薩行)の行、スートラ(経典)や訓戒の示すところ、宗門や経典の教え そは自性の真理の実現をもたらすことなし」。


私も観想を多用する真言密教(修験道)の出身なので実感しているが、入我我入観などでいくら仏と一体になったと思い込んでも、クリシュナムルティの言う自己催眠のような気がしてならなかった。 
 


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