一般財団法人 野萩青少年育成財団
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禅の十牛図 考-152

2025-03-13 著者:小山一夫

原文保存・内容校閲前/画像は元サイトから読み込みます。

禅の十牛図について技術的な側面から解説します。
(「悟りに至る十牛図瞑想法」より)
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第3章 第三 見牛


序
従声得入、見処逢源
六根門著著無差、動用中頭頭顕露
水中塩味、色裏膠青
貶上眉毛、但非他物

声より得入(とくにゅう)すれば、見処(けんじょ)源に逢う
六根(ろっこん)門 著々(じゃくじゃく)差(たが)うこと無し、動(どう)用(よう)の中頭々(ずず)顕(けん)露(ろ)す
水中の塩味、色(しき)裏(り)の膠(こう)青(せい)
眉毛(びもう)を貶上(さつじょう)すれば、是れ他物(たもつ)に非ず

頌
黄*枝上一声声日
暖風和岸柳青
只此更無廻避処
森森頭角画難成

黄(こう)*(おう)鶯枝上 一声声
日暖かに風おだやかにして岸柳青し
只此れ更に廻(かい)避(ひ)する処無し
森々たる頭(ず)角(かく) 画(えが)けども成り難し
 

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もちろん他の禅師の語録に「汝等諸人各自に回光返照せよ」というのもある。

この場合は、前後の文脈からみても、佛教語大辞典などに出ている意味で差し支えない。

だが「退歩」を伴って「身心自然に脱落して、本来の面目現前せん」と続く場合は、簡単に読み過ごせない。


道元は、また自信をもって言う。「仏性の現前せざる仏性あらざるなり」(正法眼蔵・仏性)と。

この道元の言葉には、体験に裏打ちされた強烈な説得力がある。


そこでカタ・ウパニシャッドの一文を思い出して欲しい。「(アートマンは)鏡の中に(映る像)のように、自己の中に見られる」という件だ。実際にやってみるとわかるが、この表現は実に的を射ている。あたかも「光が照りかえす(反射する)」かのように「自己の中に見られる」からだ。

 

本来の面目を観照するには、まさにこの回光返照が必須なのだ。

古神道でも、一霊つまり直霊は「顧(かえりみ)る霊」というくらいだから、日本でも古来から同じ解釈をしている。


すると次の課題は「退歩」だ。何故退歩が必要なのだろうか。その答えは、体験でしか語れない。「(アートマンは)鏡のなかに(映る像)のように、自己のなかに見られる」ということだが、顧て観照するためには一歩下がるかのような立位置(見処)になるのだ。本物の鏡でもそうだろう。一歩下がらないと自分の姿をきちんと見ることはできない。無形だから関係なさそうなものだが、いわゆる感触としての話だ。
 


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