2025-04-21 著者:小山一夫
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禅の十牛図について技術的な側面から解説します。
(「悟りに至る十牛図瞑想法」より)
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第3章 第五図 牧牛
序
前思纔起、後念相隨
由覚故以成眞、在迷故而為妄
不由境有、唯自心生
鼻索牢牽、不容擬議
前(ぜん)思(し)纔(わず)に起これば、後(ご)念(ねん)相(あい)随(したが)う。
覚(かく)に由(よ)るが故に以(もっ)て真となり、迷(めい)に在るが故に而(しか)も妄(もう)と為る
境(きょう)に由って有(う)なるにあらず、唯(た)だ心(しん)より生ず
鼻(び)索(さく)牢(つよ)く牽(ひ)いて擬議(ぎぎ)を容(い)れざれ
頌
鞭索時時不離身
恐伊縦歩入埃塵
相将牧得純和也
羈鎖無拘自逐人
鞭(べん)索(さく)時々(じじ)身を離れず
恐るらくは伊(かれ)が歩を縦(ほしいまま)にして埃(あい)塵(じん)に入らんことを
相(あい)将(ひき)いて牧得すれば純(じゅん)和(な)なり
羈(き)鎖(さ)拘(こう)すること無きも自ずから人を逐(お)う
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まだ止(シャマタ)が完全ではないから仕方がないが、ここが真我を安定させる大事なポイントの一つでもある。
真我(一霊四魂)は、そもそも離遊の運魂(「令義解」)であるため、肉体と同じ座標に拘束されているわけではない。これについてカタ・ウパニシャッドは次のように述べている。
「身体のなかにあって身体なく、不安定なもののなかにあって安定している―と、偉大な、遍在するアートマンを(このようなものと)考えて、賢者は憂いをもたない。」
真我は不安定であることが常態であり、かつ身体の中府から一定の範囲内で離遊しているものだ。それが本来の姿である以上、身体の中府に安定させることが難しいのは当然だと言えよう。結局、身心脱落、真我独存の完成なくして、真の安定もないということだ。「牧牛」の段階では、真我を独存させた上で、ウパニシャッドの説く”真我の離脱”を実現するための力をつけることが求められている。