一般財団法人 野萩青少年育成財団
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禅の十牛図 考-206

2025-05-06 著者:小山一夫

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禅の十牛図について技術的な側面から解説します。
(「悟りに至る十牛図瞑想法」より)
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第3章    第六図 騎牛帰家


序
干戈已罷、得失還空
唱樵子之村歌、吹児童之野曲
身横牛上、目視雲霄
呼喚不回、撈籠不住

干(かん)戈(か)已(すで)に罷(や)み、得失(とくしつ)還(ま)た空(くう)ず
樵(しょう)子(し)の村歌を唱(とな)え、児童の野曲を吹く
身を牛上に横たえ、目に雲(うん)霄(しょう)をみる
呼(こ)喚(かん)すれども回(かえ)らず、撈(ろう)籠(ろう)すれども住(とど)まらず

頌
騎牛迤邐欲還家
羗笛声声送晩霞
一拍一歌無限意
知音何必鼓唇牙

牛に騎(の)って迤邐(いり)として家に還(かえ)らんと欲す
羗(きょう)笛(てき)声声晩(ばん)霞(か)を送る
一拍一歌限り無き意
知(ち)音(いん)は何(なん)ぞ必しも唇(しん)牙(げ)を鼓(こ)せん
 

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もちろん師の作った清らかな「場」があるから安心してできるわけだが、この練習は後々になって自力で禅定に入る際に生きてくる。さもないと、いつまでも師に対する依存関係が終わらないだろう。


「心境ともに静中の証入悟出あれども、自受用の境界なるをもて、一塵をうごかさず、一相をやぶらず、広大の仏事、甚深微妙の仏化をなす。」


正法眼蔵・辯道話にはこのように、「証入悟出」という言葉が出てくる。通常「悟入」とは言っても「悟出」はあまり耳にしないだろう。「悟出」という語句は佛教語大辞典にも出ていない。悟入とは「真理をさとり真理に入ること」(「佛教語大辞典」)だというが、そうであるなら悟出とはさしづめ「真理から出ること」になろう。

 

つまり悟りとは、”出たり入ったりできるもの”ということだ。

これが何故「一塵をうごかさず、一相をやぶらず」なのかと言えば、それは「自受用の境界」だからということになる。露柱歩空行でしかも自受用三昧に入れば、証入悟出したとしても、それは能動的な境界ではないので、「一塵をうごかさず、一相をやぶらず」となり、身心脱落は崩れない。


では、自らすすんで「自己をはこびて万法を修証する」ことは不可能なのだろうか?
 


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