一般財団法人 野萩青少年育成財団
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禅の十牛図 考-227

2025-05-27 著者:小山一夫

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禅の十牛図について技術的な側面から解説します。
(「悟りに至る十牛図瞑想法」より)
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第3章 第七図 忘牛存人
序
法無二法、牛且為宗
喩蹄兎之異名、顯筌魚之差別
如金出鉱、似月離雲
一道寒光、威音劫外

法に二法無し、牛を且(しば)らく宗と為す
蹄(てい)兎(と)之異名に喩(たと)え、筌魚(せんぎょ)之差別を顕わす
金の鉱を出ずるが如く、月の雲を離るるに似たり
一道の寒光、威(い)音(おん)劫(ごう)外(げ)

頌
騎牛已得到家山
牛也空兮人也閑
紅日三竿猶作夢
鞭縄空頓草堂間

牛に騎(の)ってすでに家山に至ることを得たり
牛もまた空(くう)じ人もまた閑(しずか)なり
紅(こう)日(じつ)三(さん)竿(かん)、猶(な)お夢を作(な)す
鞭(べん)縄(じょう)空しく頓(さしお)く草堂の間
 

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ではこの「恐れ」はどこから来るのだろうか。そしてなぜ「消え去る」のだろう。

その答えのヒントは、「自我が何の跡形もなく完全に死に絶えるとき」にある。自我が死に絶えるとは、どのような状態であり、どうすればそうなるのか?それがわからないと、彼の真意は明らかにならない。


肉体感覚は合一する前にすでに消失しており、真我だけが神我の司る無重力のような空間に浮かんでいる境涯となる。だが、さらにそのサマディの中心というか、深部に近づいてゆくと、今度は”存在”それ自体が希薄になってゆく。この時の雰囲気はとても言葉では表現できないが、まさに合一から融合へと変わってゆくプロセスそのものを味わう。そして、ここで自らの個別性や存在が希薄化してゆく時に、「恐」「畏」が湧き起こってくるのだ。それは自身の存在そのものが消融してゆくことへの何とも言えない”未知への不安と恐れ”だと言っていいだろう。


ところが、この「恐」「畏」はある瞬間にふっと姿を消す。ラーマナは、「自我が何の跡形もなく完全に死に絶えるとき」と形容しているが、実際には、その一歩手前だ。極めて微(かす)かな”存在(感)” と、肉体と真我を結ぶラインだけは残っている(それでなければ帰還できない)。そこでは「恐」「畏」のみならず、信仰なども一切介在する余地はない。堅持すべき理念も、祈るべき対象も、何ひとつ残留できないのだ。
 


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