一般財団法人 野萩青少年育成財団
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禅の十牛図 考-226

2025-05-26 著者:小山一夫

原文保存・内容校閲前/画像は元サイトから読み込みます。

禅の十牛図について技術的な側面から解説します。
(「悟りに至る十牛図瞑想法」より)
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第3章 第七図 忘牛存人
序
法無二法、牛且為宗
喩蹄兎之異名、顯筌魚之差別
如金出鉱、似月離雲
一道寒光、威音劫外

法に二法無し、牛を且(しば)らく宗と為す
蹄(てい)兎(と)之異名に喩(たと)え、筌魚(せんぎょ)之差別を顕わす
金の鉱を出ずるが如く、月の雲を離るるに似たり
一道の寒光、威(い)音(おん)劫(ごう)外(げ)

頌
騎牛已得到家山
牛也空兮人也閑
紅日三竿猶作夢
鞭縄空頓草堂間

牛に騎(の)ってすでに家山に至ることを得たり
牛もまた空(くう)じ人もまた閑(しずか)なり
紅(こう)日(じつ)三(さん)竿(かん)、猶(な)お夢を作(な)す
鞭(べん)縄(じょう)空しく頓(さしお)く草堂の間
 

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個別性が希薄になるときの「畏怖」とは


「サマーディに入ろうとするときに起こる恐怖と身体の震えは、わずかな自我意識がいまだに残っているためである。だが、自我が何の跡形もなく完全に死に絶えるとき、人はただ至福だけが広がる純粋な意識の空間にとどまる。そして震えも消え去るのである。」(「あるがままに」)


一見「至福」と「恐怖と身体の震え」とは矛盾するように思うが、ラーマナが説くように「恐怖と身体の震え」の彼方に完全なる平和が広がっているのだ。実は、この一文を読んだ時に私はラーマナの凄さを感じた。もしも終始、至福だの歓喜だのと言われたら、彼の本など真剣に読み込みはしなかったと思う。でもこれを見た瞬間に彼の偉大さを直感した。これは悟りの深さを証明するもっともリアルな体験に属する。


神道の祝詞(のりと)に必ず出てくる語がある。それは「恐(かしこ)み恐み」「掛けまくも畏(かしこ)き」などで使われている「恐」「畏」といった漢字だ。これは神道の神がバチを当てるとかで、怖がって書かれているわけではない。

 

神道の最終境地は、神人合一と即身化神だ。つまり究極的なサマディとほぼ同じなわけだが、その境地に至る過程で、ある種の恐れや畏怖を体験する。そして完全な即身化神(=無との融合)に近づくと、今度は一切の恐れや畏怖は消失する。この一連のプロセスは、正しい方法で修行する際に共通する悟りの階梯なのだ。
 


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