2025-06-05 著者:小山一夫
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禅の十牛図について技術的な側面から解説します。
(「悟りに至る十牛図瞑想法」より)
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第3章 第八図 人牛倶忘
序
凡情脱落、聖意皆空
有佛處不用遨遊、無佛處急須走過
兩頭不著、千眼難窺
百鳥含花、一場懡*
凡(ぼん)情(じょう)脱落し、聖(しょう)意(い)皆空ず
有(う)仏(ぶつ)の處、遨(ごう)遊(ゆう)することを用いず
無(む)仏(ぶつ)の処、急に須(すべか)らく走過(そうか)すべし
両頭に著(じゃく)せずんば、千眼も窺(うかが)い難(がた)し
百鳥華を啣(ふく)む、一場の懡(も)*(ら)
頌
鞭索人牛盡屬空
碧天遼闊信難通
紅爐焔上爭容雪
到此方能合祖宗
鞭索(べんさく)人(じん)牛(ぎゅう)、尽(ことごと)く空に属す
碧天(へきてん)遼(りょう)闊(かつ)として信(しん)通じ難し
紅(こう)爐(ろ)焔上(えんじょう)、争(いか)でか雪を容(い)れん
此(ここ)に到って方(まさ)に能(よ)く祖宗に合(かな)う
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第四禅からの旅立ち
では、もう一度大パリニッバーナ経に戻って、釈迦入滅のプロセスを検証してみよう。
死は、肉体機能の停止をその医学的判定基準としている。従って、脳や心臓の働きが停止した時に死を宣告される。つまり肉体があることが、死を迎え入れる条件だということだ。禅定に入ると、合一と融合へのプロセスに足を踏み入れることになる。ここでは肉体感覚の消失を伴うので、実感として肉体を意識することができない。呼吸による肺等の動きや血流なども当然認知できないし、さらに進んで無との合一から融合に向うと、肉体どころか自らの存在そのものが希薄になってゆくことは既に述べた通りだ。いわば生死を越えた状態にあるといってもいいだろう。だが、ここでは”個”の意識領域を超えて全体との合一・融合へと向かうことになるので、ある理由から、個体としての死を素直に決定付けることができなくなる。
一方、四禅定の最上位とはいえ第四禅はまだ身体意識と意が残っている段階だ。だから脳や肉体を内観することで生を認識することができる。つまり生の側から死を受け入れることができる状態だと言っていい。真の涅槃は死を伴う。その意味で、第四禅がドアとなるのもわからなくはない。