2025-06-02 著者:小山一夫
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禅の十牛図について技術的な側面から解説します。
(「悟りに至る十牛図瞑想法」より)
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第3章 第八図 人牛倶忘
序
凡情脱落、聖意皆空
有佛處不用遨遊、無佛處急須走過
兩頭不著、千眼難窺
百鳥含花、一場懡*
凡(ぼん)情(じょう)脱落し、聖(しょう)意(い)皆空ず
有(う)仏(ぶつ)の處、遨(ごう)遊(ゆう)することを用いず
無(む)仏(ぶつ)の処、急に須(すべか)らく走過(そうか)すべし
両頭に著(じゃく)せずんば、千眼も窺(うかが)い難(がた)し
百鳥華を啣(ふく)む、一場の懡(も)*(ら)
頌
鞭索人牛盡屬空
碧天遼闊信難通
紅爐焔上爭容雪
到此方能合祖宗
鞭索(べんさく)人(じん)牛(ぎゅう)、尽(ことごと)く空に属す
碧天(へきてん)遼(りょう)闊(かつ)として信(しん)通じ難し
紅(こう)爐(ろ)焔上(えんじょう)、争(いか)でか雪を容(い)れん
此(ここ)に到って方(まさ)に能(よ)く祖宗に合(かな)う
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彼岸と涅槃について
では、なぜ釈迦は、ここで最も深い三昧の滅想受定ではなく、第四禅から涅槃に入らなければならなかったのだろうか?そして、スッタニパータで最終章に置かれた彼岸とは上記のどの段階を指すのだろうか?その辺りに、彼岸と涅槃に関する重要なヒントがあると思う。
スッタニパータの最後の章は、「涅槃に至る章」ではなく「彼岸に至る章」となっている。もし悟りの終着点が涅槃であるなら、何故釈迦は彼岸を最終章としたのだろうか?涅槃ではなく彼岸でなければならない理由とは?釈迦はどのような意図で涅槃と彼岸を使い分けていたのか?
これらの疑問を突き詰めてゆくことが、大パリニッバーナ経を読み解く鍵となるだろう。
釈迦は既に解脱していたわけだから、ニルヴァーナ=解脱では理屈に合わない。また一説には、十大弟子の一人、目犍連も死を予感して、ニルヴァーナ(涅槃)に入る許しを釈迦に求めたと言われている。つまり原始仏典の編纂された時代には、彼岸と涅槃に明らかな意味の違いがあったと考えられるのだ。そこで当時の解脱観について検討したいと思う。