一般財団法人 野萩青少年育成財団
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禅の十牛図 考-246

2025-06-15 著者:小山一夫

原文保存・内容校閲前/画像は元サイトから読み込みます。

禅の十牛図について技術的な側面から解説します。
(「悟りに至る十牛図瞑想法」より)
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第3章 第八図 人牛倶忘


序
凡情脱落、聖意皆空
有佛處不用遨遊、無佛處急須走過
兩頭不著、千眼難窺
百鳥含花、一場懡*

凡(ぼん)情(じょう)脱落し、聖(しょう)意(い)皆空ず
有(う)仏(ぶつ)の處、遨(ごう)遊(ゆう)することを用いず
無(む)仏(ぶつ)の処、急に須(すべか)らく走過(そうか)すべし
両頭に著(じゃく)せずんば、千眼も窺(うかが)い難(がた)し
百鳥華を啣(ふく)む、一場の懡(も)*(ら)

頌
鞭索人牛盡屬空
碧天遼闊信難通
紅爐焔上爭容雪
到此方能合祖宗

鞭索(べんさく)人(じん)牛(ぎゅう)、尽(ことごと)く空に属す
碧天(へきてん)遼(りょう)闊(かつ)として信(しん)通じ難し
紅(こう)爐(ろ)焔上(えんじょう)、争(いか)でか雪を容(い)れん
此(ここ)に到って方(まさ)に能(よ)く祖宗に合(かな)う
 

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結果自然成


道元は、正法眼蔵・辯道話で「一時の坐禅なりといえども、諸法とあひ冥(みょう)す」というが、坐ることがそのまま大宇宙や万物との冥合になるようであれば、本来の意味で祗管打坐の完成だと言っていいだろう。それは「図作仏(作仏を図る=坐禅により作為的に仏になろうとすること)」ではなく、自然無為の坐禅、即ち深秘なる禅定(サマディ)の世界に他ならない。これが安定的にできるようになれば、さほど苦労することなく円相に入れるようになるだろう。


だが、厳しいことを言うが、そこに至る道は容易ではない。独力ではほとんど無理だと言ってもいいだろう。そこで道元が正法眼蔵の冒頭で主張しているように、「この三昧に遊化するに、端坐参禅を正門(しゃうもん)とせり」が重要な意味を持つ。やはり、ウパニシャッド同様、師の傍らで坐禅することこそが正門なのだ。


道元は言う、「文字の法師(ほつし)に習学することなかれ」(正法眼蔵・光明)と。言葉に頼って教えを説こうとするような人に師事しても、成就は不可能だろう。だから、先ず傍らに坐るに値する良師を探すことから始めたほうがいい。それが参禅と祗管打坐についての必要不可欠な条件だからだ。このハードルを越えずして、禅定もありえないと思う。

<脚注>
1.アサンガ・・真諦(しんだい)の「婆藪槃豆(ヴァスバンドゥ)法師伝」には、アサンガ(無着)が兜率天から招(しょう)請(せい)した弥勒菩薩の現世説法の話が出ている。法は聞けたが姿は見えず、光明のみを見て教説を聞かず云々、といった内容。
2.空海・・「孔雀経音義」によれば、八宗論議の際に弘法大師は、智拳印を結び三密の定に入るとまもなく光輝く大日如来となったという。
 


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